書評
2026年10月号掲載
画の無責任と音楽が齎す魂の震え
奥泉光『木蓮記』
対象書籍名:『木蓮記』
対象著者:奥泉光
対象書籍ISBN:978-4-10-391205-7
自分の周り、或いは著名な人でもそうなのだが、見てると、絵描きは長命で、ミュージシャンは短命である。どちらも自分の好きなことだけやって日を暮らし、日々のストレスもそんなにないだろうになんでそうなるのかな、と思う。で、考えたのは、やはりミュージシャンというのは演奏中、常に時間に支配され、その中で死ぬほどの緊張と集中を強いられているので、やはり死に易いのかな、と云う事。けど、だとしたら画家は緊張も集中もせず、マリファナかなんかを吸いながら、鼻歌交じりで、らくーに描いているように聞こえる。もちろんそんなことはないはずで、絵描きだって時間には追われてはいないだろうが、空間に追い詰められる、と云う事は屹度あり、種類は違えど、同じく産みの苦しみを抱えていると思われる。
じゃあ、いったいなにが違うのか。
それは責任をどこまで感じるか、の違いであるのかも知れない。どういう事かと言うと、ミュージシャンは、どんなヘタクソだって、その音に魂を込める、というか、勝手に籠まってしまう。なので、その出た音の全責任は自らに帰属する。然るに画家は、魂ももちろん籠まるのだけれども、画布に現出したるものは、基本、目で見た、或いは、心に映じた景色である。その景色を切り取って描く、と決めたのは自分だが、景色そのものは自分ではない。なので責任の取りようがない。例えば画家が山の景色を描いたとする。その山が人を厭な気持ちにさせたとしても、画家は、「いや、僕は(僕が)見たまま描いただけで、文句があるなら山に言ってください」と抗弁することができる。実際は、その、(僕が)、というところに問題があるのだが、同じようなものを客が見ている場合が多いので、なんとなく、「まあ、それもそっすよね。納得いかないけど」と引き下がるより他ない。つまりかなりの部分、責任を取らないでいられる。つまり、魂の部分で無責任でいられるというのが画家の長命の理由ではないか、と俺なんかは愚考している。
奥泉光のえげつないほどの傑作小説『木蓮記』の主人公にして語り手・松枝獏園は幕末に生まれ明治に活躍した画家である。と、俺は今、さくっと画家と申し上げたが、松枝獏園は初め、狩野派末流の絵師に学び、後に洋画に転じたので、経歴のスタートは絵師、画工、という芸術家というよりは職人的な仕事の始め方をした。
で、画家というと、さっき言った、(僕が)、の部分が非常にこの、大きく、なるが、絵師というとけっこうそれが小さくなり、したがって面倒くさい魂の表出もけっこうなくなっていく。それがこの語りにはもの凄く現れていて、というか、この語りの特徴となっていて、どういうことかと言うと、この時代はご案内の通り、世の中がムチャクチャ動いた、アホみたいな言い方で言うと、「激動の時代」ってことは個人もそれに翻弄され、変化の少ない時代からすると考えられないくらい数奇な運命を辿る人が多い。又、この獏園なる人物は武士の子ではあるが妾の子で、三歳になる前に母親を「窒扶斯」で亡くし、七歳で養子に出され、且つ特異な霊的体験をした人物で、もしこれが音楽的魂的語りだったら、すごくなんていうのかな、感情の部分を前面に押し出して語るに違いない。況してや今日日の死ぬほど繊細で傷つきやすくて、それを全力で喚き散らすのが流行りの、昨今の小説やJ-POPなら、妾の子で母が死に養子に出された時点で、本六冊、アルバム八枚分くらいは泣き言を書きまくり唄いまくるだろうが、この語りは、目には見えない、感情・内面を排しているので、そういうものがまったくなく、さらっと流れるように、しかし驚くほど精確に描出せられ、それは勝海舟の「氷川清話」の現談話を読んでいる、というか、聞いているような、さっぱりした、だけど人間がありありと目の前に泛ぶ、文章になっている。そしてその根底にあるのは自らの経歴も含めて、人間の有り様すべてを、景色、として描いて、それを、評価、しない無責任性である。
だけど、この、なめとんのか、と思うほどの名作にはまだ仕掛けがある。それは、冒頭に掲げられた、【編者による緒言】という文章で、この語りが、本人の語りではなく、西洋稗史研究家・前田賢永なる人物が発見した自筆原稿を校訂編集、その際、本文にかなり手を入れたもので、「テクストの真正性」に疑問が残るものである、とされている点で、つまり、なんかあっても前田の責任であって、語り手の責任ではない、と云う事になっている。
でさらにもっと大きな無責任がこの、あり得ないほどの大傑作には仕込まれているのだけれども、それはまだ読まぬ読者の為にここには書かないでおこう。けど俺は、なにが、西洋稗史じゃ、とか思ったし、奥泉光はふざけた男だ、と思ったが、そのおもしろさと素晴らしさ、画の無責任と音楽が齎す魂の震えを小説において両立させたこの作品を前にして拝跪するより他ない。奥泉光は当代随一の作家である。ところが彼はフルートの名手、則ちミュージシャンでもある。果たして彼は長生きするのか。早死にするのか。しかしもうけっこうな年だから多分、長生きしてこの手の傑作を多くものにするのだろう。楽しみでならない。
(まちだ・こう 小説家)

