書評

2026年10月号掲載

我々が知る歴史は真実か まるで上質のミステリー

藪本勝治『弁慶―創られた豪傑―』(新潮選書)

澤田瞳子

対象書籍名:『弁慶―創られた豪傑―』(新潮選書)
対象著者:藪本勝治
対象書籍ISBN:978-4-10-603952-2

 生きている限り、日々はあわただしく過ぎて行く。ただ、どれだけ今日と未来の事ばかり考えて暮らしていても、人が完全に歴史と無関係に過ごすことは不可能だ。たとえばスーパーで買った醬油ボトルに貼られた「祝・創業百五十年」の文字、道路の向かいに建つ神社の起源。一日一日を生きるとは過去を堆積させることと同義であり、我々の足の下には日々新たな歴史が生まれている。
 ただ昨日や今日の生まれたての歴史はともかく、何百年も昔のそれは果たしてどこまで真実だろう。歴史の上に新しい歴史が降り積もる以上、そこにはどうしても歪みが生じる。我々が知っている歴史とは、その果てに存在する常識とは、果たして本当のものなのか。本書はそんな問いを、武蔵坊弁慶という「歴史上」の人物を通じ、読者に鋭く突きつける。
──京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
 文部省唱歌の「牛若丸」を引くまでもなく、源平合戦の時代に源義経の片腕として活躍した僧兵・弁慶の存在は、今日も広く人口に膾炙している。生涯の主君となる源義経との五条大橋での出会い、奥州での全身に矢を受けての立ち往生。能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」では、主君であるはずの義経を差し置き、弁慶が主人公に設定されているし、「弁慶の泣き所」や「内弁慶」など彼にちなんだ慣用句は誰もが一度は口にした経験があるだろう。
 それだけに、弁慶が実在したかどうか疑わしいことや、鎌倉幕府公認の史書である『吾妻鏡』やあの『平家物語』に彼に関する記載が乏しいとの指摘には驚く方も多かろう。告白すれば、かく言うわたし自身もそうだった。ちなみにわたしの弁慶の基本的なイメージは、小学生の頃に見た中村吉右衛門さん主演のNHK新大型時代劇「武蔵坊弁慶」の彼。真面目で不器用で、しかし忠義心にあふれ、常に主の側を離れない弁慶。大半の日本人が有しているイメージは、わたしのそれとさして変わらぬのではなかろうか。
 本書によれば、当時の貴族たちの日記には、義経の忠臣だった伊勢三郎義盛や佐藤四郎忠信の最期が記載されているという。だが弁慶については死にざまはもちろん、生前の行動についても、記録はまったくないそうだ。確かに最後まで主君に従った一の家来とすれば、誰かが少しぐらいは書き記していてもよさそうである。
 結論から先に言えば、今日の我々が知る弁慶像が誕生するのは、義経の死から二百年以上が経った室町時代。誤解を恐れずに言えば、我々が知る弁慶は「いた」のではなく、「作られた」人物というわけだ。
 そんな弁慶像を、本書は室町時代に成立した『義経記』から解き明かし、彼およびその主である義経の物語を必要とした当時の社会像を明らかにする。その過程はまるで上質のミステリーを読むかのよう。読者は弁慶と義経の二人が作られていくさまを通じ、彼らを必要とした室町の個性あふれる世相をまざまざと感じとるに違いない。そしてそれは決して、当時の都であった京都だけを舞台としない。源頼朝に離反し、東北へと落ち延びる義経・弁慶の物語は、各地の社寺や在地民たちの存在を垣間見させ、二人の物語が多種多様な地域と社会で醸成された事実を物語る。
 ただ注意すべきことに、室町期に生まれたこの弁慶像は、我々が知るその人物像と完全に合致するものではない。なにせ『義経記』における弁慶と来たら、時には主君をも翻弄するほどふてぶてしく、あっけらかんとした人物なのだ。そんな忠義と滑稽を兼ね備えた弁慶は、各時代の中で少しずつ変容し、江戸時代末期に作られた「勧進帳」においては武家倫理の権化のごとき人物へと生まれ変わる。そしてさらに日本が海外へと進出する近代国家では、主の義経とともにナショナリズムの旗手たる役割すら与えられていく。そこにはもう、自在なる室町の権化たる彼らの姿はない。
 歴史を知るとは何か。それは過去の一事象を知ることではなく、表層的に降り積もった複数の時代の価値観を学ぶことである。今日の我々に、室町という時代は遠い。他の幕府に比べて政治体制に混乱が多かったこともあり、一元的な理解を拒む時代と言ってもいいだろう。だからこそ弁慶について知ることは、そんな複雑な社会を理解する一助となり得、更には変わり続ける常識を直視する眼差しをも与える。弁慶という実に興味深い「人物」を通じて、彼を取り巻く世の中を概観する、知的好奇心を隈なく刺激する一冊だ。

(さわだ・とうこ 作家)

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