書評

2026年10月号掲載

特集 遠藤周作没後30年

掌に残る消えない印

遠藤周作『わたしが・棄てた・女』

小川洋子

平凡で、地味で、どんくさい〈聖女〉と出会ってしまった男の物語──遠藤文学の代表作を読む

対象書籍名:『わたしが・棄てた・女』
対象著者:遠藤周作
対象書籍ISBN:978-4-10-112342-4

 卑怯な男と一途な女。冷徹な男と耐える女。こうした図式でくくられる小説は少なくない。あらすじを読んだだけで分かった気になり、登場人物たちを軽蔑したり憐れんだりしているうちに、予想した通りの悲劇的な結末を迎える。
 しかし『わたしが・棄てた・女』をそのような安易な先入観で手にした読者は、最後、本を閉じた時、必ずや言葉を失い、立ちすくむことになるだろう。一旦、分かりやすい型に誘い込まれ、油断した途端、足元が揺らぎ、気づくと人間存在の根源的な深みに吸い込まれている。ありふれた男女関係のもつれが、いつの間にか様相を変え、宇宙的と言ってもいい彼方にまで世界を広げ、一筋の光を届けてくれる。光は淡く、今にも消え入りそうでありながら、確かな温もりを持って、こちらの胸を照らし出す。
“私は自らの運命を受け入れ、それに感謝し、生かしているだろうか”
 そう、自問しないではいられなくなる。

 太平洋戦争に敗れて三年、戦災の傷がまだ癒えない東京から話はスタートする。“ぼく”は友人の長島と二人、六畳一間の下宿で一緒に暮らしているのだが、生活ぶりは無邪気なほどにだらしない。部屋は埃が舞い、万年床は臭気を発し、ノミが飛んでいる。汚れた下着を行李に詰め込み、洗濯もしないまま使い回している。学校にはあまり通わず、お金のためアルバイトに精を出す毎日だ。
 お金とともに重要な問題は、女性だった。
(ゼニコがほしい、オナゴがほしい。)
 自虐を装いながらも、はっきり本音を吐露している。
 生活態度と同様、女性に対する思いにも子どもっぽさが隠しきれない。二人は葡萄の収穫をする娘たちの姿を思い浮かべる。葡萄棚へ手をのばした時にのぞく、真白い膝小僧の美しさに胸を高鳴らせる。人格を持った存在として、正面から女性と向き合うだけの経験はなく、ただ憧ればかりが膨れ上がっている状態なのだ。
 彼らの年代特有の幼さなのだろうが、微笑ましいと言って見過ごすわけにはいかない。“ぼく”の場合、未熟さの裏に、邪悪さが潜んでいるからだ。その邪悪さこそが、森田ミツを引き寄せた、と言えるのではないだろうか。
“女の子が欲しいなら、どんな女の子でもいいじゃないか……古雑誌の黄色い頁に葉書を送る馬鹿な娘たちでもいい”
“……あの女の子はぼくにとって出来心の相手にすぎなかった……終電車が通過した夜のホームに冷たい風が吹きころがす煙草の空箱のように棄ててしまう一人の娘だった。”
“どうせ……恋愛する相手じゃねえからな。やっちゃえよ、やっちゃえよ。”
 呆れるほどに酷い言葉の数々である。しかも可愛げがない。欲望に囚われるのは仕方ないとしても、それを解消するために他人を利用し、一生懸命、自分で自分に言い訳をしている。自分が傷つかないよう用心深く予防線を張りながら、隠しきれない気の弱さを持て余している。
 ミツから来た手紙の便箋と封筒の安っぽさをあげつらい、筆跡を軽蔑する。ミツが身に着けているものをいちいちけなし、うす汚い娘、と断じる。ミツのスカートからはみ出した足に紙屑がまつわりつくのを見て、味気ない気分になる。
 ミツの人間性に思いを寄せるという気持ちを、徹底的に排除している。外見や出自だけから、ミツを軽蔑していい相手と決めつけている。
 想像の中にいる、葡萄を摘む娘の膝と、今目の前にいるミツの足。幻想にすがり、現実を遠ざけようとする態度には、一人の人間として成長しきっていない危うさを感じる。だからこそ、“ぼく”にはミツが必要だった。彼女にもらった十字架のお守りを彼は溝に捨てるが、その時、掌に生まれた空洞は、決して消えない重みを残した。そこにいながら、いない者として扱われたミツは、空洞になることで存在の証を刻んだ。
 たった二度会っただけで、以降、一切の関りを絶ったつもりでいた“ぼく”だが、不思議と二人の人生は交差してゆく。忘れた気でいても、予告なしにミツの姿が思い浮かぶ。あるいは偶然、彼女のうわさが耳に入ってくる。その都度彼は、名付けようのない気分に陥りながら、残像を払いのけようとする。けれど、空洞をなきものにする、という矛盾の前では、ただ自分の無力を思い知らされるばかりだ。
“ぼく”がデパートの屋上で、アドバルーンの監視のアルバイトをする場面が出てくる。東京の街を見下ろし、無数の人々がうごめくさまを目にしてこうつぶやく。
(沢山の人生だな。色々な人生だな。)
 平凡な感慨でありながら、実は重い真実を含んだ言葉だ。その証拠に彼は、この時、ミツを思い出している。
 一人一人が、自分の人生を背負っている。授けられた運命から逃れる方法も知らず、ただひたすらに生きている。そういう意味では、誰もが平等なのだ。優劣も上下もない。“ぼく”がミツを蔑む理由はどこにもない。
 ミツの本質を一言で表現した一文がある。
“……だれかが不倖せな顔をしているのを見ると、たまらなくなる……”
 すぐ他人に同情し、自分の立場も忘れて何でも差し出してしまうミツを、“ぼく”は感傷的な気分に酔っているだけだ、鼻持ちならない、と断じる。彼女の同情を利用しようとさえする。
 彼の考えは浅かった。彼女の他者に対する思いが、単なる憐れみに留まらないのを、彼女自身が証明してみせている。不運な出来事に出会うたび、彼女は成長してゆく。恨みの感情を見せる場面は一つもない。不運な中に何かしら意味を見出し、自分が果たせる役割を黙々とこなす。
“彼女には人生の運命とは反抗するものではなく、受け入れるものだった。”
 満足な教育を受けられず、実母とは早くに死に別れ、継母と、血のつながらない幼いきょうだいたちに気を遣って早くに自立したミツ。運命に抗ってもがくエネルギーより、丸ごとそれを受け入れる忍耐強さの方が、自分を救ってくれるのだ、とちゃんと知っていた。
 後半、最も大きな試練に直面した彼女が、どんな選択をするか。結論が明らかになる前から、読者には分かるような気がする。そうだろう、ミツならそうするに違いない、と納得し、彼女をいっそう応援したくなる。いや、励まされているのはこちら側なのだ。彼女の背中に向かい、両手を合わせ、感謝の祈りを捧げたくなる、と言った方が適切だろう。
 映画や流行歌が好きで、スターの写真を部屋に貼って悦んでいるミツに出会い、修道女は『汝、幼児のごとく非んば』という聖書の言葉の意味をかみしめる。かわいそうな子を前にした時、“ぼく”のように相手をどう好きに扱っても構わないという、蔑みの心で接する者もいる。同情を示しはするが、自らに厄介ごとが降りかかってきそうになると、すぐに身をかわす者もいる。
 しかし神は違う。かわいそうな子はお役に立つ子だ、としていっそうの愛を注ぐ。困難を乗り越えるための力を授ける。
 同僚の奥さんが、子供の給食費さえ払えずに困っているのを知り、一生懸命貯めたお金を貸してあげた時。兄の治療費のため、パチンコ屋のお金を盗んだ男の身代わりになって罪を被った時。ミツはまだ、なぜ見過ごすより損をする方が気持ちが楽になるのか、自分で自分に説明できなかったかもしれない。しかし御殿場の病院にたどり着き、病人やシスターたちと触れ合うなかで、なぜ、と問う必要も感じないまま、自分らしさを発揮できるようになる。大きな不幸の連帯の中に、自分にとってふさわしい場所を見つけたのだ。やはり神は、人間にとって最も尊い力を、ミツに授けていた。

 ミツの人生に触れた今、“ぼく”をただ単に身勝手な男として切り捨てることはできない。彼もまた、すべての人間と同じ、逃れられない運命を背負う者なのだ。彼の犯した過ちを責める資格は、自分にはない。彼の心に潜む邪悪さは、私の内にもある。天空から眺めれば、彼も私も、うごめく無数の人々の中で、区別などつかなくなる。
 シスターからの手紙を前に、表面的な言い訳では誤魔化しきれない寂しさを彼は味わう。掌に残る空洞を見つめる。そこから伝わる痛みに、心を震わせる。
“……ぼくは今あの女を聖女だと思っている……”
 最初の手記に、彼はちゃんとそう記している。蔑んできたものすべてが、実は聖なるものだったのだと気づけたのだ。ミツは一人の人間の生き方に消えない印を残した。決して無力な人間ではなかった。
 今、私は、彼に感謝したいという不思議な感情に浸っている。私をミツのところへ連れて行ってくれて、どうもありがとうございます。ほんの短い出会いの中で、人生の根を照らし続ける決定的な光を得たあなたこそが、読者の前に、ミツを立ち現わして下さったのです。そう言って、両手を合わせ、感謝の祈りを捧げたい。

※2026年8月末に刊行された新潮文庫『わたしが・棄てた・女』のために書かれた解説を再録しました。

(おがわ・ようこ 作家)

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