インタビュー
2012年5月号掲載
刊行記念インタビュー
ぼくが『さよならクリストファー・ロビン』を書いたわけ
『さよならクリストファー・ロビン』
対象書籍名:『さよならクリストファー・ロビン』
対象著者:高橋源一郎
対象書籍ISBN:978-4-10-450802-0
質問 どうも。お元気ですか? ところで、最近、とみに書かれるものが多いような気がします。とりわけ、去年の3・11以降、顕著な気がするのですが、なにか理由があるのでしょうか。自己紹介が遅れましたが、わたしは、「タカハシさん」と申します。ご存じだとは思いますが、あなたの別人格として、あちこちに出没させていただいております。こういう場でないと、なかなか答えてはいただけないような気がして、あえてお訊ねさせていただきました。
回答 ありがとうございます。確か、この一年、あなたにも何度か出場していただいたような気がします。その折はありがとうございました。さて、3・11以降、確かに、書く機会が増えました。
それは、まず、第一に、書かなければならないことが増えたからだと思います。では、その「書かなければならないこと」というのはなんだったのでしょうか。実のところ、わたしにもよくわかりません。というのも、わたしたち作家は、なにかがわかって、あるいは、わかっているから書くのではなく、わからないことがあるからこそ、わかりたいと思って、書くからです。ですから、3・11以降、わたしが書くものが増えたとするなら、わからないことが増えたからなのかもしれません。
質問 なるほど。確かに、あなたは、論壇時評やエッセイ、評論などで、「3・11」前後の問題について、まるで「水を得た魚」みたいに、いろいろなことを書かれていらっしゃる。それが、「わからないこと」をわかるためであることは、なんとなくわかります。けれども、小説の場合は、どうなんですか? そっちも、「わからないこと」をわかるためなんですか? そんな、作者の事情に、読者は無理矢理付き合わされなきゃいけないんでしょうか?
回答 「わからないこと」が増えたのは、わたしだけではないはずです。はっきりしているのは、わたしたちが読者に向かって書いていることです。そして……わたしの考えでは……その読者もまた、「わからないこと」に悩まされつつあるような気がするのです。
もちろん、小説以外のものも、読者に向けて書かれます。けれども、小説は、より一層深く、読者を必要としています。このことは、なかなかうまく言い表すことができません。小説は、最初から、作者と読者を必要とする形式であって、わたしたちは、小説を書き始めようとする時、最初に意識するのは、読者の存在です。いや、もっと正確にいうなら、最初に読者が存在するのかもしれません。わたしたちは、それを察知して、その読者に向かって、書き始めるのです。
質問 なにをですか? なにを書くのかを、決めるのは、あなたなんですか、それとも読者? 読者が決めるとしたら、どうやって、読者が書いてほしいと思っていることを、作者であるあなたは知ることができるんです? もし、そうだとしたら、あなたは、読者の言いなりになってるだけなんじゃないですか?
回答 まず、現実の読者がいます。そのことを、わたしも知っています。その人たちは、わたしの書いたものを買ったり、読んでくれたりした上に、感想を言ってもくれます。そのような人たちがいます。たいへん、ありがたいことです。わたしは、そんな現実の読者に向かっても書いています。
それから……もう一種類の……いや、もっと他にもいるのかもしれませんが……もっと別の種類の読者がいます。彼らは、実際には、わたしの本を買うことはできません。それから、読んで感想を言うこともできません。なぜなら、彼らは、わたしが、書こうとする時、書いている時にしか存在しないからです。しかし、彼らは、注意深く、わたしの書くものを読んでくれます。そして、そこになにが書いてあるのか、わたしと一緒に探ろうとしてくれるのです。時々、その読者というのは、わたし自身ではないかと思う時もあります。わたしは、鏡に映った自分に向かって書いているのではないかと思う時も。しかし、そうではありません。それは、少なくとも、書いているわたしではありません。
質問 むむむ。頭がクラクラしてきますな。ちょっと、質問を変えてみましょう。あなたは、「わからないこと」が増えたから、書くことが増えたとおっしゃる。小説の場合も同じだと。ところで、今回、あなたが出される『さよならクリストファー・ロビン』ですが、この小説は、「3・11」をまたいで書かれておられる。これは、どういうことなんでしょうか。この小説を書き始めた頃と、「3・11」以降で、あなたの中でなにかが変わったのでしょうか――どう考えても変わったとしか思えませんが――だとするなら、この小説は、途中から別の意味を持つようになったのでしょうか。
回答 『さよならクリストファー・ロビン』は、いくつかの短編でできています。とりわけ、その最初の作品、この作品集の要になっている「さよならクリストファー・ロビン」を、わたしは大きな喜びを感じながら、書きました。
最初は、わたしの大好きな……いや、たくさんの人たちが愛している『クマのプーさん』の登場人物たちを、わたしの世界に招待してみたいと思ったからでした。その時、なにが起こるのか、実のところ、わたしにもわからなかったのです。そして、プーさんやクリストファー・ロビンは、わたしのところにやって来て、わたしの思わぬことをしてくれたのです。あれは、わたしの力ではありません。わたしは、あの作品に関しては、半分しか関与していないような気がします。彼らは、嵐のようにやって来て、それから、わたしにとってとても大切なものを残して去ったのです。
いったい、そのことにはどんな意味があるのだろう。わたしは、「さよならクリストファー・ロビン」を書きながら、それから書き終えた後も、ずっとそのことを考えていました。プーさんやクリストファー・ロビンは……なんというか……虚構の存在は、どのように振る舞うべきなのか、その一つのやり方を教えてくれたのです。そして、言うまでもないことですが、虚構の存在は、わたしたち現実の存在があまりに混沌とした世界の中で困惑している時、少し単純なやり方で、わたしたちが何かを教えてくれる役割を担っているのです。
「さよならクリストファー・ロビン」を書いた後、わたしは、彼らが教えてくれようとしたことが一体なになのかを探ろうとして、またいくつかの短編を書きました。そして……そして、「あの日」がやって来たのです。ほんとうのことを言うと、わたしはほとんど驚きませんでした。いや、自分が驚かなかったことに驚いたのです。つまり、わたしは、プーさんたち、虚構の登場人物たちの運命を書くことで、知らないうちに、準備をすませていたのです。もし、この小説が、途中から別の意味を持つようになったとするなら、それは、「あの日」の後、次のステップに進むことになったということなのかもしれません。
質問 「準備」ですか? ということは、あなたは、「あの日」の到来を予感していたのですか?
回答 違います。わたしたちは、未来について知ることはできません。ちょうど、わたしたち作者が、自分の作品の未来を、自分の作品の結末がどうなるのかを、完全にはわからないように。けれども、未来についてはわからなくとも、それ故にこそ、わたしたちは前に進むことができる。希望を抱いて前進することができるのです。
わたしは、プーさんたちと共に、想像を超える大きな出来事に直面した時、わたしたちはどんな態度をとるものなのか、どんな態度をとるべきなのかを考えました。そして、その直後に、わたしたちは、ほんとうに大きな出来事に遭遇したのです。けれども、わたしたちにとっての「あの日」は、3月11日だけではありません。ひとりひとりにとっての「あの日」もまた存在するのです。
質問 最後の質問です。「あの日」の到来に対して、準備を行なうための小説、って、そんなの面白いんですか?
回答 いい質問をありがとう。面白いに決まってるじゃないですか。というか、面白い小説になっているはずじゃないですか。
わたしたちが、プーさんやクリストファー・ロビンから習ったいちばん大切なことは、どんなに困難な局面に対しても、立ち向かうために必要な勇気を与えてくれるのは「楽しさ」だってことなんですからね!
(たかはし・げんいちろう 作家)