書評

2012年6月号掲載

『幼少の帝国』刊行記念特集

幼少と成熟は二項対立ではない

――阿部和重『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』

濱野智史

対象書籍名:『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』
対象著者:阿部和重
対象書籍ISBN:978-4-10-418003-5

 本書は、著者初のノンフィクション作品である。ロラン・バルトの『表徴の帝国』をもじったタイトルからも分かるとおり、本書の主題は日本社会を「幼少の帝国」、すなわち成熟を拒絶する国として捉えるというものだ。
 かつてマッカーサーが、「一二歳の少年」に日本を喩えたことはあまりにも有名である。著者は本書の冒頭で、終戦直後に撮影されたマッカーサーと昭和天皇のツーショット写真を取り上げ、その両者のあまりの身長差に、当時の人々は衝撃を受けたはずだと忖度する(当時の日本政府は、この写真を載せた新聞各紙を発禁処分にしたほどである)。そしてこの瞬間、日本人の成熟拒否は始まったのだと著者はいう。自分たちの神=天皇があまりにも小さな存在であることを見せつけられたこの瞬間、「小さいことこそが素晴らしいと言える社会を築かねば、このまま永久に体の大きな欧米人たちに敗北し続けるほかないのかもしれない」という価値転倒が始まったのではないか。これが本書の出発点となる認識である。
 これは文芸批評に馴染みのある読者にとって、ある種日本社会論の「セオリー」どおりの解釈といえるだろう(実際、著者自身も「常套句中の常套句」であると何度も断りをいれている)。本書が日本社会論中の白眉となったのは、ここから先の展開=ノンフィクション取材のパートによる。著者は次々とインタビュー取材を敢行していく。皮膚のアンチエイジングの専門家、美容整形外科の院長、「仮面ライダー」の子供向け玩具の開発者、電力自由化のコンサルティング会社社長……。一見すると、取材先は全く無関係の業界・ジャンルにまたがっており、それぞれ何の共通点もないかのように見える。しかし聞き手となった著者の手さばきによって、まるで一つの星座が浮かび上がるかのごとく、見事なまでにストーリーがつながっていくのである。
 たとえばアンチエイジングというのは、文字通り「成熟(老衰)の拒絶」を実現する技術である。しかしその背景には、実は社会の〈表側〉で機能する保険医療とは異なり、〈裏側〉の民間医療だからこそ可能な、自由な技術発展の歴史があった。そのあり方は実は、iPhoneの内部に仕込まれた小型部品から、子供向け玩具の開発に至るまで、日本のものづくり産業とも通底する。日本のものづくりの現場では、老練な技術者と関係者どうしの密なコミュニケーションという、ある種の〈ムラ世間〉的な狭い場があるからこそ、実は他国の追随を許さないイノベーションが次々と起こってきた。つまり戦後日本は、「成熟拒否」――「大人=西欧近代」を目指さない方向性――を突き詰めたがゆえに、異様なまでに「老練」な職人芸があちこちでタコツボ的に発達した国なのである。
 さらに本書では、取材の途中で東日本大震災が起こってしまう。普通に考えれば、子供用玩具の取材などを続けている場合ではないように見える。それこそこの一年、日本社会では政治家から大企業の経営陣に至るまで、いかにオトナたちが「幼少」のままであるかということを私達はいやというほど見せられてきた。いまこそ日本社会は「成熟」し、脱原発を実現する「普通の国」を目指さなければならない。そんな声が聞こえてきそうなものである。
 しかし、ことはそう単純ではない。なぜなら本書がいうように、日本において「幼少」と「成熟」は二項対立の関係では捉えられないのだから。3・11後の危機的状況を乗り越えるためにこそ、私たちは変化を拒絶したままの政治・経済の状況(=昼の領域)だけではなく、一見すると社会にとって何の役にも立ちそうにない消費分野(=夜の領域)にも目を向けるべきなのだ。日本社会には美容整形や子供玩具のみならず、「幼少」のままだからこそ「成熟」した技術や文化を生み出している領域が、まだまだ無数に広がっている。本書が描く「デコトラ」のような日本社会のヴィジョン――「右も左も東も西も一緒くたの、種々雑多な文化が渾然一体となった、ハイブリッドな」社会こそ、「成熟」を目指すのでも「幼少」のまま居直るのでもない、私たちが目指すべき「第三の道」であると、評者もまた確信するのである。

 (はまの・さとし 批評家)

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