書評

2012年6月号掲載

新田文学の求心力

――新田次郎生誕百年

木村行伸

対象書籍名:『つぶやき岩の秘密』/『小説に書けなかった自伝』(ともに新潮文庫)
対象著者:新田次郎
対象書籍ISBN:978-4-10-112228-1/978-4-10-112229-8

 新田次郎の作品は、時代を超えて普遍的な求心力を持っている。その影響力は、二○○九年に公開された北アルプス、劒岳山頂への三角点埋設を題材にした『劒岳〈点の記〉』等、映像化作品が高く評価されていることでも証明されよう。また、故人の遺志で設けられた新田次郎文学賞は、第一回の沢木耕太郎(『一瞬の夏』)をはじめ、第三十一回の角幡唯介(『雪男は向こうからやって来た』)まで、堅実な作品に光をあて、この国の文化発展に大きく貢献し、あわせて新田文学の志も継承している。
 そして、本年二〇一二年は、新田次郎の生誕百周年にあたるのである。これを記念して、新潮文庫からは『小説に書けなかった自伝』と、『つぶやき岩の秘密』の二冊が刊行されることとなった。前者は、字義どおり新田次郎本人の自伝であり、初の文庫化となる。また後者は、自身の孫たちを意識して執筆された少年向けの「冒険探偵小説」で、小学六年生の三浦紫郎が、三浦半島西海岸の地下に隠された旧日本軍の財宝の謎に挑んでいる。一九七三年にはNHKでテレビドラマ化もされており(二〇〇一年にはDVD化)、小説自体は、これが四十年振りの復刊である。
 新田文学の魅力の一つは、美しくも緊迫感あふれる情景描写と、骨太な人物造形にあるといえよう。また、氏と親交の厚かった伊藤桂一は、その作家的姿勢について「一口でいえば、正義感に満ちた文学者」、且つ「誠実で健康で強勁な文学理念を、新田さんは生涯守りつづけて来られた作家だと思います」(『新田次郎文学事典』所収「刊行のことば」より)と述べている。こうした新田次郎の印象は、おそらくは読者全体に共鳴されるものと思われる。そして、今回の「自伝」に触れることで、我々はその文学世界の真髄へとまた一歩近づくことができるのである。
 たとえば、それまでは執筆の動機を、妻女藤原ていが旧満州からの引揚げを記録した『流れる星は生きている』を発表したことに刺戟されたから、と伝えられてきた。が、実際は「筆の内職(アルバイト)」を求める生活上の理由もあった、と冒頭で告白しているのだ。他にも、中央気象台(現在の気象庁)勤務と、作家生活を両立させていくことの苦労も率直に記している。また、熱心な時代小説ファンなどは、気象庁での技術屋としての経験を活かして「小説構成表」を作っていたところに、かつて旋盤機械工として働いた池波正太郎が、その体験を執筆作法に取り入れていたことを想起するのではないだろうか。勿論、本書には、作家としての出発点で、「サンデー毎日」の大衆文芸賞に入賞した、富士山で荷揚げをする「強力(ごうりき)」小宮正作の苛烈な生き様を描いた「強力伝」(直木賞受賞)をはじめ、孤独を愛した社会人登山家・加藤文太郎を主人公に、大正から昭和初期の山登りの世界の実態に迫った『孤高の人』。肉体的ハンディとともに山に挑み続けた竹井岳彦の孤独と再生を描いた『栄光の岩壁』。二人の対照的な女性登山家にスポットをあてた『銀嶺の人』。作者本人の富士山レーダー建設の体験をもとにした記録文学『富士山頂』。故郷、諏訪への熱い想いを投影した大長編『武田信玄』(吉川英治文学賞受賞)。アラスカの地で、食糧難に苦しむエスキモーを救ったフランク安田の生涯を綴った『アラスカ物語』。他『芙蓉の人』、『霧の子孫たち』等々、実在の人々をモデルにした数々の名作や、児童文学、SF小説、紀行文などの誕生秘話が惜しげもなく語られているのだ。
 作家新田次郎は、終生、大自然の脅威と、それに向き合う人々の相克をテーマとしてきた。その代表作が『八甲田山死の彷徨』である。日露戦争を想定し、八甲田山へ雪中行軍訓練に出発した青森第5聯隊と弘前第31聯隊は、想像を絶する豪雪に、一方がほぼ壊滅してしまう。本書は、未曾有の悪天候に加え、自然への認識不足と、窮地での指揮系統の混乱が相乗すると、甚大な悲劇が生じるという事実を我々に提示しているのだ。先に新田文学が「普遍的な求心力を持つ」と記したのは、こうした〈警鐘の文学〉という一面も含んでいるからに他ならない。
 新田次郎生誕百周年を迎えるにあたって、読者の方々が作品を味読されるとともに、その深遠な文学から、少しでも明日への兆しを見つけられることを心から願っている。なお、自然と人間との対決は、『つぶやき岩の秘密』でも、重要なファクターとして物語に導入されている。両親を失った孤独な少年が手にする、本当に大切なものが何か、是非ご自身の目で確かめていただきたい。

 (きむら・ゆきのぶ 文芸評論家)

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