書評

2012年10月号掲載

「東北」の記憶

赤坂憲雄『3.11から考える「この国のかたち」東北学を再建する』

津島佑子

対象書籍名:『3.11から考える「この国のかたち」東北学を再建する』
対象著者:赤坂憲雄
対象書籍ISBN:978-4-10-603716-0

 昨年の三・一一前日、赤坂さんと私はある劇場で偶然、隣の席に坐り合わせていた。舞台では野田秀樹さんの芝居をやっていて、それは火山の噴火と天皇制をテーマにしたもので、火山噴火に伴う激しい地震をきわめてリアルに表現していた。翌日の午後、東日本大震災が起こり、巨大な津波が襲い、さらに福島第一原発事故までが起こるとは、よもや知らずにいた私たちは、芝居のあと、簡単な挨拶だけをして別れた。もちろん、それがどうした、と言われてしまいそうな偶然ではあるけれど、地震と津波に襲われたのがおもに東北の太平洋岸だったと知ってから、私の思いのなかで、「東北学」を提唱し、確立した赤坂さんと、よりによって三月十日の夜、ステージ上の地震の揺れを並んで見つめていたことに、ぞっとするような予兆を個人的に感じつづけているのも事実なのだ。
 奥州、みちのくとも呼ばれてきた東北地方は私にとって、うとましさと愛着を同時に孕む場所だった。その理由は、自分自身の体の半分に「東北」があったからで、我が体を鏡で直視しなければならないような羞恥心がつきまといつつ、客観的にはこの日本列島を見るとき、「東北」を見なくて、なにがわかる、とも思いつづけてきた。それで赤坂さんがほぼ十数年前に提唱しはじめた「東北学」について聞いたとき、虚を突かれる思いがしたのだったし、応援したい気持でいっぱいになっていた。ヤマトに長いこと、抵抗しつづけてきた「東北」、そしてヤマトに結局のところ、負けつづけ、その怨念を静かに地層深くひめてきた「東北」、そうした背景ゆえ、今も日本の中央政権からなにかと軽んじられているんじゃないかとひとびとが鬱屈を感じている「東北」。そこには、ヤマトとべつの時間が流れ、べつの文化が生きていることを、「東北学」という概念は明瞭に顕在化させたのだった。
 大震災後に書かれたこの新著では、津波に襲われた地域において、アニミズム的世界が民俗芸能としてまっさきに顔を出した、と記されている。鹿(シシ)踊りとか、相馬野馬追などの民俗芸能は「ヤマトの軍勢も蝦夷も、それゆえ敵も味方も、いや人間ばかりではなく、鳥獣虫魚、あらゆる命あるものたちの鎮魂と供養のために」伝承されてきた。そして東日本大震災において、「ほかならぬ二万人の死者・行方不明者こそが、鎮魂の業(わざ)としての祭りや民俗芸能を欲していた」。だからまず、民俗芸能がよみがえったのだ、と。
 そうした土地はしかし現実には貧しさに苦しめられた挙げ句、原発立地となり、放射能被害を受け、近代文明の限界を示す結果となってしまった。とはいえ土地の記憶は生きつづける。日本の未来は「東北」を見つめ直すことからはじまる、とこの本は静かに強く主張する。鎮魂と希望がこめられた貴重な一冊の本が、ここに誕生した。

(つしま・ゆうこ 作家)

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