インタビュー
2012年12月号掲載
刊行記念インタビュー
書くことを止められない物書きの性分
『けさくしゃ』
「しゃばけ」シリーズで大人気の畠中恵さんが江戸に新しいヒーローを誕生させました。その名は高屋彦四郎。彼が活躍する小説『けさくしゃ』への想いを語って頂きました。
対象書籍名:『けさくしゃ』
対象著者:畠中恵
対象書籍ISBN:978-4-10-146192-2
――『けさくしゃ』は江戸時代の大ベストセラー作家、柳亭種彦という実在の人物を主人公にした新感覚時代小説です。彼の正体は、旗本二百俵取りのお殿様・高屋彦四郎(通称彦さん)さん。本書には、若き日の彦さんが戯作者(けさくしゃ)となっていく姿が描かれると共に、江戸時代の出版用語の説明もふんだんに盛り込まれ、当時の出版事情が細かく記されています。
畠中 そもそも、彦さんというより、お江戸の出版界をテーマにした小説を書きたかったのです。なので、章ごとのテーマも、版元との出会い、江戸時代の出版システム解説、同業の作家や絵師、彫り師とのお付き合いの仕方、筆禍事件、戯作の舞台化……と、出版界の有りようを主眼においた作りになっています。
――彦さんの成長を追っていくうちに、江戸の出版界が分かるという構造になっているわけですね。舞台は一八〇〇年代ですが、この頃の出版界はどういう環境だったのですか。
畠中 彫り師や刷り師の技術が向上し、木版印刷が盛んになった頃です。本は最初、手書きのものしかなかったのに、技術革新によって大量に印刷することが可能になった。つまり、戯作が商売として成立するようになり、プロの作家が登場した時代なのです。技術がコンテンツに影響を与えていたわけですから、面白いですよね。実際、彦さんのベストセラー小説『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の表紙はとても綺麗なんですよ。
しかし版元にとっては、とても恐ろしい時代でもありました。たった一冊の本が失敗しただけで、潰れてしまったお店もあったとか……。そこまでいかなくとも、どうにもこうにも経営が立ちゆかなくなり、利益が出ている本の権利を売って、お店の赤字を清算したというケースもあったようです。実は今回、調べても彦さんを戯作者にスカウトした版元・山青堂の資料を見つけられなかったのですが、山青堂はそういう事情でお店を早々に畳んでいたのかもしれませんね。小説の中では、「金、金、金」と言ってばかりの強突張りのような人間に描いてしまいましたが、実際はもっと真面目な人間だったかもしれないなぁ。そうだったら申し訳ないことをしました。
――この時代には、他にも有名なベストセラー作家がいたと思いますが、なぜ彦さんを主人公に選んだのですか?
畠中 彦さんって、大変なベストセラー作家のわりには、滝沢馬琴や山東京伝ほど、後世で名前が知られていないんです。『偐紫田舎源氏』は『源氏物語』という大変評価された作品が元ネタだったので、焼き直したという印象ばかりが残ってしまい、『南総里見八犬伝』で、そのキャラクターが現代の人達にもうけた馬琴のようには、評価されなかったのかもしれませんね。彦さんの人生自体もそれほど波瀾万丈でなかったので、ドラマ性も少なく人目をひきにくいですしね。
けど、『偐紫田舎源氏』は、カレンダーや小物など、今で言うところのグッズ商品まで展開されていたんです。彦さんは、それほど大人気作家だったんですよ。それなのに現代ではほとんどスポットが当てられていない。ならば、売れっ子・柳亭種彦ではなく、作家としてまだ海のものとも山のものともつかない時代の彼を書いてみようと思ったのです。作家志望の方が読んで、何か参考になったり、ご自身と重なる部分を発見してもらえたら嬉しいですね。
――彦さんって、超悠々自適な生活を送っていますよね。
畠中 確かに。現代の作家志望の方から見たら、うらやましい立場かもしれませんね(笑)。勝子さんという可愛い奥さんもいるし、下男と下女がいるから身の回りのことは何もしなくていい、小普請という立場なので、少しだけ働けば一年間暮らしていけるだけの禄ももらえたわけですし。
――小普請という身分によって縛られていた部分はなかったのでしょうか?
畠中 泊まりがけであちこちに出かけることはできなかったので、その点は窮屈だったかもしれませんね。しかしそのおかげで、戯作にのめりこむことができたのかもしれないので、ケガの功名ですよね。
――デビュー前の彦さんを描くことで、畠中さんご自身のことで何か思い出したことはありますか?
畠中 思い出したというか、書くことを止められないのが物書きの性分であるということを再認識しました。作家って、一度売れたからと言って次も売れるとは限らないし、書き続けていればいつか必ずヒット作を書けるという保証があるわけでもありません。しかも、彦さんは戯作を売らないと生活ができないというわけでもなかった。それなのに、書いた。それはもう性分としか言えませんよね。
また、江戸時代は規制が厳しかったので、武家という立場なのに戯作を書いていた方は罰せられることも多々ありました。なので皆さん、どこかで「まずいだろうなぁ」と思っていたはずなんです。けど書き続けたわけで、アホな団体ですよね。かくゆう私も似たところはあるので、時代を超えてもアホは治らないわけです(笑)。
――戯作を通じて、彦さんは色んな方と出会います。
畠中 絵師、彫り師、版元はさることながら、彦さんよりはるかに禄の高い大身の旗本石川伊織・直子夫妻とも知り合います。このご夫妻とは戯作について語るサロンのような空間を作ります。身分を超えて集まる会は実際にもあったようですが、そういう空間は素敵ですよね。中間の善太とも、彼の正体が分かってから、新たな関係性を築いていきます。彼は後半になってどんどん顔を出してくるようになったので、単行本化にあたって、前半に彼の存在を盛り込んでいきました。
――いいですよねぇ、あのサロン。昼間からお蕎麦をたぐり、お酒呑みながら、小説談義ができるなんて、うらやましい。しかし、種彦は命をかけて戯作を書いていたわけですから、ある種の覚悟をもって臨んでいたかもしれませんね。
畠中 彦さんにそこまでの覚悟があったのだろうか(笑)。けど、実際に、筆禍事件に巻き込まれて、さらし首になった人がいました。幕末あたりの獄門者の写真が残っているんですが、コワイですよ。幅が細い板の上に味噌が乗っていて、その上に顔があって。味噌を土台にしているのも、味噌は塩っけがあるから腐らないようにしていたのかもしれませんね。
――……彦さんの最期って、本当に病死だったのでしょうか。
畠中 どうだったんでしょうかねぇ……。すべては謎に包まれています。
(はたけなか・めぐみ 作家)