書評

2013年2月号掲載

個であり続ける自由

――舞城王太郎『キミトピア』

松永美穂

対象書籍名:『キミトピア』
対象著者:舞城王太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-458006-4

 東京の調布にある「キミトピア」の話。って、違うか。東京都北区の「北とぴあ」のような場所があるわけではないし。タイトルの由来は冒頭のイントロダクションに書かれている。それにしても、風変わりな短編集だ。読み始めると、次々に投げ込まれる変化球にぼうっとなり、わー、次はどんな球で来るの、と短編を一つ読み終えるごとに期待がふくらみ、ちょっと怖くもなり、全部読み終えるのがもったいなくなってくる。
 短編の語り手は「私」だったり「僕」だったり「俺」だったりするが、すべて一人称だ。「書き」言葉というよりもツイッター的な「打ち込み」言葉のモノローグで織りなされていて、自分ツッコミも満載だが、会話の部分もうまく組み立てられていて、先の読めない(だから変化球の)おもしろさがある。
 登場人物にはエキセントリックな人が多い。各短編の主人公たちに共通するのは、妥協せずに自分の筋を通そうとする潔癖さだろうか。彼らは潔く、しかし不器用でもある。特に女性主人公たちの、自らの見解をとことん言語化して相手に差し出そうとする不屈の態度は印象的だ。冒頭の短編「やさしナリン」では、他人への同情が高じて自分の生活の足場を見失ってしまいそうな身内に対し、主人公が厳しい批判の言葉を投げかけ続ける。やさしさそのものが否定されるわけではないが、一時の同情に流されることは許されないのだ。適当に「なあなあ」で収めることもありえない。それは、卑猥なあだ名を持つ先輩に対して距離をおこうとする女子大生が登場する作品「ンポ先輩」でも同じだ。先輩や周囲の学生に気を遣わせてしまっている現在の態度をあらためるように、と友人に忠告された主人公の「ごめん、私空気の奴隷じゃないの」という一言には凄みがある。空気を読んで、ひたすら他人に調子合わせて、という日本的なカルチャーはここでは断固否定される。彼女のこだわりは些細なことに見えても本質に関わる問題であり、まさに実存に関わってくる部分なのだ。
 ふいに(場違いに見えるかもしれないが)ベルトルト・ブレヒトの「都会のジャングル」を思い出してしまった。アメリカに住むアジア系移民の男のところに、「おまえの意見を買い取らせてくれ」という男がやってくる。金と暴力にものをいわせて思考の自由を奪おうとする相手に対し、移民の男はあくまで「ノー」を貫こうとする……。ブレヒトの戯曲は多分に政治的だが、舞城王太郎の作品も、長いものには巻かれろ的な風土に対し、個であり続ける自由を探し続けており、ギャグっぽい舞台設定にもかかわらず政治的・哲学的であるといえる。作品のなかでストーカー事件や誘拐事件が頻発することは、個の領域への理不尽な暴力の介入に対する、不安の表明か。
「真夜中のブラブラ蜂」では、子育てが終わった専業主婦の、知らない場所をブラブラしたいという願望が語られる。近場の散歩から始まって、自転車での遠出、自動車でのドライブ、さらには国内旅行……と、行動範囲はどんどん広がっていく。行き当たりばったりのブラブラはどうしようもなくいい加減に見えるが、一方でこの主婦は疲れ切って晩ごはんが作れなくなるほど真剣に(!)ブラブラしており、思いやりがありそうな家族さえ捨てて、ブラブラを極めようとする。その行動は他者からは理解されにくそうだが、彼女にとってはもはやブラブラが生きることの内実と重なっている。この「ブラブラ」、実はいろんな名詞に置き換えられそうだ。
 まあ、こんなに頑固な人ばかりでも社会が立ちゆかなくなるな、と小心者のわたしなどは思ってしまうのだが、自由と理想のために決然としがらみを断ち切るヒロインたちはどこかすがすがしい。一方、男性の主人公たちにはもう少しソフトで受け身的なところがあって、たとえば、「すっとこどっこいしょ。」の語り手は、高校の先生から進路の希望を書けといわれて一週間悩んでみても自分のしたいことが見えてこない。高校一年生のレベルではそれが普通かなと思うが、その後、東大生になっても彼の迷いは終わらない。安易に決めることよりも、ここでは「悩む権利」がとことん尊重されているといえるだろう。「あまりぼっち」の語り手のように、仕事を辞めてしまう社会人男性の場合も、モラトリアム期間を終わらせようという焦りはあまり感じられない。そんな「僕」のところに「昨日の《僕》」が訪ねてきて、「僕」と「《僕》」の意見が分かれていくという発想は抱腹絶倒。
 一種のアンチ教養小説? 高度成長期の「発展」の概念に物申す的な。読んでいるうちに自分のなかにある先入観に気づかされて冷や冷やする、スリリングな読書の冒険だった。

 (まつなが・みほ ドイツ文学者)

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