書評
2013年2月号掲載
武道場に早変わりする教会から
笹森建美『武士道とキリスト教』
対象書籍名:『武士道とキリスト教』
対象著者:笹森建美
対象書籍ISBN:978-4-10-610505-0
週刊「キリスト新聞」の一面で、私は『前田敦子はキリストを超えた』という本が刊行されたのを知りました。私が牧師を務める駒場エデン教会へ、信者の人が持ってきてくれたのです。
この本は人気アイドルグループ、AKB48を若手の社会学者が分析したものです。その中心メンバーがファン投票第一位に返り咲いたとき、「私のことを嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないで」と訴えた利他性に注目して、その“救い主”としての役割をキリストのそれと比べたわけです。ただ私は、違和感を禁じ得ませんでした。
彼女が救おうとしたのは、自分の所属グループです。そこに商業的な意図がないとは言い切れません。対してキリストは世の人々すべてを思い、神様の御心が成るようにと祈って処刑されました。
もちろん、キリストやキリスト教が比喩として用いられるのはこれが初めてではありません。ただ、社会学者が神と芸能人を一緒にする感覚に、信仰への理解はまだこの程度なのか、もっと努めていかねばと痛感させられたのも事実です。
しかし一般的には、キリスト教とアイドルよりも、キリスト教と武士道を並べてみることのほうが、より意外と受け取られるかもしれません。牧師である私は、戦国時代から続く古流剣術「小野派一刀流」の第十七代宗家でもあります。一刀流は剣豪・伊藤一刀斎が考案した剣術で、その極意は「とにかく前へ出て、一太刀で相手を制する」というもの。礼拝が終われば机や椅子が片付けられて、教会は門下生が剣を振るう道場に早変わりします。指導するのは稽古着に着替えた私です。
こうした活動に、「武道とキリスト教は矛盾するのでは」とお尋ねを受けることもしょっちゅうでした。たしかに一見、相反するもののようにすら思われるでしょう。ただし共に、人の生き死にを真摯に問う「道」なのです。その根幹をみていくと、例えば武士の切腹は宣教師の殉死と通じています。『葉隠』によると、鎌倉時代末期の武将、新田義貞は自分の首を切って埋め、その上に横たわって死を遂げたとされています。その壮絶さに敵は驚愕、追い払われてしまったといいますが、これにそっくりの逸話がキリスト教に伝わっているのです。ふたつの話が我々に教えるのは、どんな武力よりも死が相手に勝つということ。実はキリスト教は自殺は禁じていても、殉教は禁じられていません。そしてキリスト自身が落命していなければ、その愛が二千年にわたり語り継がれ、人々の救いになることもなかったのではないでしょうか。武士道でもキリスト教でも、「死んで花実が咲いている」のです。ほかにも「義」と「愛」など、どんな呼応があるのかは、ぜひ本書『武士道とキリスト教』を開いてみて下さい。
教会には信者以外にも、悩みを抱えた方々がやってきます。ふたつの「道」を知る心得こそが、混迷を生ききるのに役立つと信じてやみません。
(ささもり・たけみ 牧師、小野派一刀流第十七代宗家)