書評
2013年3月号掲載
『ドンナ ビアンカ』刊行記念特集
無骨な純情が、胸をしめつける
――誉田哲也『ドンナ ビアンカ』
対象書籍名:『ドンナ ビアンカ』
対象著者:誉田哲也
対象書籍ISBN:978-4-10-130873-9
プロローグは、一人の男の述懐から始まる。居酒屋で、定食を食べながら、男は過去を振り返る。母子家庭で、水商売をしていた母親が、店の休みに連れて来るのは、こんな「定食屋と居酒屋の中間みたいな」店だったな、と。酒のツマミのようなおかずで、自分は白飯を食べ、母親は同じものを食べながらビールを飲んでいた――。俺には、こういう店が一番似合っている。男はそう思う。
誉田さんの物語は、どの作品も冒頭の掴みが抜群なのだが、本書もまたしかり。一人の男のモノローグが終わると場面は一転、警視庁練馬署の刑事、魚住久江が登場する。後輩の峰岸を補助者に、留置されたわいせつ犯を取り調べ、巧みな質問により容疑を認めさせ、さらにその勢いで余罪も、というところに、緊急の呼び出しがかかる。それは、中野署管内で発生した誘拐事件への召集だった。
そこからまた一転して、冒頭の男のパートへ移る。高校卒業後に居酒屋のバイトを始めたこと。その後、母親が肝臓を悪くして入退院を繰り返すようになり、母親の治療費を稼ぐために、昼は工事現場、夜は二時、三時まで居酒屋のホールに立つ生活を二年半続けたこと。母親を看取った後しばらくして再び水商売の世界に戻り、三十代の半ば頃、飲食店に卸売りをする酒屋で働くことになったこと。ある日、男は、配達に出かけた池袋のキャバクラで、一人のホステスと偶然言葉を交わす。それが、男=村瀬と瑶子の出会いだった。
一方、久江が召集された誘拐事件は、二千万円の身代金を要求するメールが、犯人から会社の社長の携帯に届いていた。誘拐されたのは、その会社の専務取締役を務める副島ともう一人だった。ここで、村瀬のパートと久江のパートが一部重なり合う。村瀬が瑶子と出会った時、瑶子の客として店を訪れていたのが、その副島だったのだ。その後、副島とともに誘拐されたのが、村瀬だったと明らかになるにつれ、読み手はその事件の謎にぐいぐいと引き込まれて行く。
誘拐事件の謎も、もちろん読みどころではあるのだが、本書の一番の肝は、村瀬が瑶子に寄せる一途な想い、だ。初めは単なる出入り業者の配達員とその店のホステス、という間柄でしかなく、時おり二言、三言言葉を交わすだけだったのだが、ある日、村瀬が行きつけにしている居酒屋の小上がりの奥に瑶子の姿を見つけて以来、村瀬の気持はゆっくりと瑶子に傾いて行く。瑶子が実は副島の愛人だと分かってからも、村瀬は瑶子への想いを止められなかった。
それまでの人生で、何一つぱっとしたことのなかった村瀬は、ごく普通の四十男だ。特に見栄えがいいわけでも、誇れるような学歴があるわけでもない。年齢を考えれば、四百万円台前半という年収は決して多い額ではないけれど、残業手当もつけばボーナスもでる。家賃を滞納する心配はない。十分御の字な暮らしだ。けれど時おり、村瀬の心に寂しい風が吹く。身の丈にあった日々の有り難みは十分承知してはいるけれど、けれど、「ただそれだけ」だ、という寂しい風が。瑶子は、そんな村瀬の心にぽっとともった灯りだった。
読めば読むほど、瑶子に寄せる村瀬の想いが切なくて、胸が締めつけられる。村瀬の純情の背景には、恐らくは水商売のシングルマザーに育てられた、という生い立ちがあるのだが、冒頭でさらりと描かれた村瀬と母のつながり――平日の朝でも酒臭い息をしていた母が、けれど、朝ご飯だけは、何かしらちゃんとこしらえてくれた――があるからこそ、村瀬の心の芯が真っ直ぐなことが、読み手にちゃんと伝わって来る。この辺りの塩梅は、本当に絶妙である。
事件の顛末と、村瀬の想いの行方はぜひ実際に本書を読んでもらいたい。読み終えた後、思わず村瀬の背中を抱きしめたくなる、とだけ。久江のパートも、単なる警察小説ではなく、アラフォー、シングルの久江の恋愛も絡ませているのがいい。今後の久江の恋愛模様も合わせて、早くも続編が楽しみ! これまでの誉田さんの警察小説とは、ひと味違ったものになるはずだ。
(よしだ・のぶこ 書評家)