インタビュー
2013年4月号掲載
『さきちゃんたちの夜』刊行記念 e-mail インタビュー
夜中のコーヒーとチョコレートみたいな本に
*編集部からの質問に e-mail でお答えいただきました。
先のことはわからない。世の中は毛布や愛や笑顔や支えだけでできているのではない。伝わるだろうか、闇の中を超えてこの小さな光は――不安に満ちた時代に灯る5つの物語。
対象書籍名:『さきちゃんたちの夜』 / 『人生のこつあれこれ 2012』(新潮文庫)
対象著者:よしもとばなな
対象書籍ISBN:978-4-10-383410-6/978-4-10-135941-0
© Fumiya Sawa
『さきちゃんたちの夜』には、全部で6人の「さきちゃん」がでてきます。この短篇シリーズは、どのような着想から生まれたのでしょうか?
友だちの友だちに「早希ちゃん」という子がいて、いつもお母さんの作ったほんとうにすてきな生地とデザインの服を着ていて、どこかぽわんとしていて、でも三十代の悩みもきっとちゃんとある感じで、みんながその子をだいじに思いながら「早希ちゃん」と呼ぶたびに聞いているほうがすごく明るい気持ちになりました。
きっと今のこんな暗い世の中にも、みんなを明るい気持ちにさせるこんな女の子たちがたくさんいるに違いないと思って、いろいろなさきちゃんを書いてみようと思いました。
すごくおいしい三時のおやつのような、夜中のコーヒーとチョコレートみたいな、そういう本にしたかったです。
主人公たちをはじめ、現代を生きる二十~三十代の女性がさまざまに描かれています。その姿は、よしもとさんの目にどう映っていますか?
時代が悪いのであって、その子たちが悪いわけでもないのに、若いお嬢さんたちには必要以上に社会の負担が押し寄せていて、それでもみんなわりとまじめに一生懸命生きていて、気をまぎらわせるものはたくさん用意されているんだけれど、みななにかもっと真実味のあるものをどこかで求めていて、しかしそのちょっと上の私たち世代はバブルの狂乱を知っているから、時代は必ず変わるがよいほうに変わるとも限らない、とわかっているだけに、いろんなことをはっきりと指し示してあげることもできなくて、ほんとうになにを信じて生きるのかを考えるのがむつかしいんだろうなあという感じがしています。
「鬼っ子」の亡き伯母の家の庭にある古い井戸に渦巻くもののように、日常にひそむ闇の気配を作中に色濃く感じます。そうした存在を描こうと思われたのは、どうしてですか?
これ、言うといつもうまく言えないから問題が起きるんですけれど、私の目にはそういうものが見えているような気がする、としか言いようがないです。人はそういうものと常に共存してきているけれど、こういうふうになにかでバランスが崩れたときに、それをこつこつと戻そうとしている人たちもいるんじゃないかな、と思います。
闇は、人間のなかにもあることが示唆されています。しかも、善良な人々にも潜むとも。それは時代的な側面とも結びついたものなのでしょうか?
これもありきたりな答えなんですけれど、人は状況次第でみんなどうにでも変化すると思います。自分は違うとか、自分はそんなひどいことはしないとか、だれにも決して言えないと思います。どんな時代にもこの問題はあったし、文学は常にその表と裏を両方細かく観察して書かれてきたんだろうなと思います。私は観察するのは好きなんですが、後味の悪い人間ドラマはよほど良質なものでないとどうしても受けつけられないので、せめて後味はよくするスタイルをとっています。
このシリーズの執筆途中に、東日本大震災が起こりました。そのことは作品になにか影響を与えていますか? また、ご両親が他界されるということもありました。
おばあちゃんの時代には関東大震災があったし、私が生きている間にも阪神淡路大震災があったので、これからもなにもないってことはないだろうなあとは思っていました。でも、津波や原発に関してはやはり問題が多すぎる感じがしてさすがに動揺しました。両親の死も覚悟はしていましたが、いっぺんに来るのは多すぎると思って、動揺しました。今年は多すぎた動揺を鎮める年にしたいものです。
まさか生きている間に、隕石がひゅ~、どか~んっていうのを実際に見るとは思っていなかったので、今もロシアの事件ですでにちょっと動揺しています。今日生きていられる不思議を感じずにはおれません。
「癒しの豆スープ」の主人公が感じる「人間というものを長い間ずっと見ている目みたいなもの」、こうした感覚はどこから来たものでしょうか? 現代的な物語の背後に人類の太古から連なる大きな時間の流れが感じられるのも印象的でした。
人間は自分たちの頭の中の考えだけで全部帳尻が合うと思ったら、傲慢だよなあといつも思って生きてきました。カルマの法則とか、その人がその人の思ったような人になっているとか、そういうことってあまりにも厳密すぎて、なにかしらの宇宙の法則があるとしかどうしても思えません。
表題作には、ふたりの〈さき〉が登場します。そのひとりは十歳で最年少のさきです。彼女に何を託しましたか?
うちは男の子なので、女の子っていっしょにお風呂に入ったり、おしゃべりしたりできてうらやましいなあ、でも女の子のお母さんにはそういうのをあんまりエンジョイしてない人もいるなあ、というようなことを考えて書いていました。
あと、おばとめいっていうのは、この世の中でもかなりうまくいきやすい関係だと思います。親に言えないことも言えるし、家族を共有しているし、歳の差があってバランスがいいし。
私の知人の家にも、めいがしょっちゅう遊びに来て、泊まっていったり、あるいはママにないしょでボーイフレンドと旅行に行くのに知人の名前を借りたり、なんだかちょっとうらやましいことがずっと続いているんです。
きっとさきちゃんのお母さんが見ているさきちゃんと、ちょっと幼いところのある崎ちゃんが見ている頼もしいさきちゃんは(ややこしいなあ)全然違う子どもなんだと思います。そういうのが書きたかったです。
なので、特になにかを託すという気持ちはありませんでした。
子どももいろんなことを受け止めているということを、わかる人が周りにいるといいね、というような感じです。
都会で長く一人暮らしをしている主人公が「個としての自分」にとっての心地よさと「種としての自分」の危うさを感じるところは、とても現代的ですね。
今の若い人たちは、ひとりでいる気楽さに慣れすぎているんじゃないかなという気がします。あれって意外に後戻りできない道なんです。
いろいろあってから結婚しないって決めたり、離婚してひとりになってからでも充分楽しめる一人暮らしなのになあって老婆心(笑)から思うことしきりであります。
ちなみに同棲っていうのも慣れてしまうとわりと後戻りできない道なので、学生と婚約期間以外にはあまりおすすめしないなあ。
もうほとんどいっしょに住んでる!止まりにしておくのが無難かと……。
あと、男の人に対してはものわかりのいいふりは最もよくないですね(笑)。
本作とほぼ同時に文庫『人生のこつあれこれ 2012』も刊行されます。よしもとさんの公式サイトで十年間続いた日記連載が、昨年からマンスリーエッセイに変わり新シリーズが始まりました。「人生のこつあれこれ」というタイトルに込めた思いは何でしょう。
日記は、育児をしてフラをやってまだぎりぎり両親が孫に会えているという時期を記録するためだけに続けていました。しかし、意外な好評を得て、だいじにしてくださっている読者の方がたくさんいるようになりました。日常をさらすのにももう疲れ果てていたので、なにか人の役に立ち、さらに極端な意見を書くことによってちょっとそれぞれが考えさせられるというようなものにしたいと思いました。
暮らし方を大きく見直す転機であると書かれています。海外でのお仕事も増えているようです。今の日本に感じることは何でしょうか。また、これからの展開を教えてください。
今の日本は、正直言ってジリ貧という言葉しか思い浮かびません。
でもどん底の世界にはいつも面白い花が咲いたり、意外な人と出会えたりするので、そういうことにせめて期待しようと思っています。自分は常に地道な一面があるので、それをここ十年はますます生かそうと思ってわりとうきうき節約していますが、はじめから終わりまでジリ貧の中にいたり、常に格差に惑わされたりするであろう、今から青春を迎える子どもたちはやっぱりさぞかしたいへんだなあと感じずにはおれません。せめて、楽しいことは楽しいと思えるような気楽なところが少しでも日本に芽生えてくるといいなあと思います。状況が豊かだから楽しいわけではないし、貧乏臭い行動をしているからみじめっていうことはなく、人間の力や光があればどこにいてもなにしていても楽しいっていう単純なことが、なぜか隠されているような感じを受けています。
(よしもと・ばなな 作家)