書評

2013年4月号掲載

山本周五郎と私

三つほどのこと

山田太一

対象書籍名: 山本周五郎長篇小説全集第1・2巻『樅ノ木は残った』(上・下)
対象著者:山本周五郎
対象書籍ISBN:978-4-10-113464-2/978-4-10-113465-9/978-4-10-113464-2

 山本周五郎氏については、三つほど書くことをためらう私事 (わたくしごと)がある。まったくこちらだけの話で、山本氏の知ったことではないし、氏を損うことでもないのだが、こうして書きはじめても、いくらかまだ迷っている。
 それはさておき、氏は二度の結婚をなさっている。はじめの夫人は氏が四十一歳の時に病没して、その翌年に最後までの夫人きんさんと再婚されている。そのきんさんの『夫 山本周五郎』という回想記は「これ以上は、面倒はみられない、というくらいに主人(うち)の世話はした気持です(略)ああもしてやりたかった、こうもしてあげたかった、という後悔はありません。主人(うち)としても、『ぼくみたいにしあわせものはない』と今でも思ってくれているのではないか、と思うんです」というさっぱりした、気持のいいもので、子連れの男と一緒になった初婚の女性の苦労などはほとんど書かれていないのだが、一点だけ前夫人に触れたところがある。
 今井達夫氏が「ある雑誌の座談会でおっしゃっておりますが」という前振りで前夫人が「『私は大衆作家のところへ嫁に来たのではない』と言って主人を逆に発奮させた」そうだというのである。
 伝聞だから事実とはちがうかもしれないが、そんなことを女房にいわれたら、さぞたまらないだろうと思う。氏は二十七歳でその夫人と結婚し、ほぼ十六年を暮している。そのどの時点でそんなことをいわれて発奮したかは知らないが、氏は一貫して大衆作家であり続け、大衆作家でなにが悪いか、問題はその質だ、質で他を圧することだ、ぬきん出ることだと考えていらしたと思う。そして初期の代表作といわれる『日本婦道記』を書いた。すると直木賞に選ばれたという知らせが来た。
 直木賞はある程度すでにプロとしての実績を持つ「大衆作家」に与えられる賞である。「大衆作家」として折り紙をつけてやろうといって来たのである。
 女房にそんなことをいわれていたら受けとれるだろうか。
 世間は今ほどではないにしても「おめでとう」といってくるだろう。にこにこしないわけにもいかない。夫人も笑顔をつくり、祝い客に酒の用意をするかもしれない。しかし内心「大衆作家のところへ嫁に来たのではない」と思っている。これはキツイ。議論してやっつければすむというものではない。そんなことをすれば尚更みじめだろう。
 エイ、断ってしまえ。賞などで分類されなければいいのだ。「純」も「大衆」もない。いい小説を書けばいいのだ。
 その信念は無論氏のものだが、あの辞退には底に夫人の言葉が強い動機になっていたのではないかという空想をしてしまう。その方が人間らしいし、切ないし、立派すぎなくていいと思ってしまう。
 しかし辞退で夫人は氏が「大衆作家」からぬけ出したと思っただろうか。きっとそうは思わなかっただろう。なぜなら、氏は「大衆作家」であることをやめる気はなかったからだ。やめて、そこからは芥川や谷崎、志賀直哉を目指すという愚に走るような人ではない。そこまで自分が生きて来た「大衆作家」の道を深めて、凡百の大衆作家をひきはなして独自の大衆作家になることを目指したのだと思う。
 しかし、それは口でいうようなことではない。作品で証明するしかない。で、更に黙々と大衆小説の成熟を求めて書き続けたのだと思う。真意を口にしないでじっくりと達成を画すところは、『樅ノ木は残った』の原田甲斐のようである。
 しかし、その伊達騒動の通説をくつがえした名作も前夫人は読めなかった。直木賞辞退からわずか二年後に亡くなってしまったのである。とりわけ私は『青べか物語』を読んで貰いたかったと思う。

 と――ここまで氏をくわしく知る人間のように書いたが、ある時まで私は氏の小説を一作も読んでいなかった。
 氏の作に限らず、時代小説を読むことがなかった。少年のころ、講談全集や吉川英治の子ども向けの作品などは読んだが、高校のころには翻訳小説やさかのぼってもせいぜい明治までを素材にした小説にとどまっていた。
 思いがけなく一九八八年に拙作が第一回の山本周五郎賞の候補の一作になっていると知らされたのである。
 まず、ひるんだ。自分の小説にそんな資格があるだろうか。なにしろ私は時代小説を書いていない。氏はそういうジャンルを越えていい小説を評価した作家であり、現にあなた以外の候補も時代小説作家ではないといわれた。「それはもう光栄ですが――」といったが、自作との接点が分らない。しかし御作を一つも読んでいないとはいい出せなかった。死後も続く名声は耳にしていたが、自分とは遠い巨匠ぐらいにしか思っていなかった。書くのを迷っていると書いたことの一つはこれである。一人になって急いで近所の図書館へ走った。もちろん氏の作はいくらでもある。しかし、その中から一作を読むというのではあまりにアトランダムなので、「昭和文学全集」(小学館)の選択に頼ることにした。ところが、これも一つ一つが長い。そのころの私は、小説ではないが集中して書かなければならない仕事をかかえていて時間がなかった。一作だけ、これは短篇だが欠かせない作品だからというように編まれていたのが「よじょう」だった。当然ながら、いい作品だった。語り口のうまさに酔った。急がない。ゆっくりと、しかし語るべき順番が来ると、必要なことは過不足なく語って人物の書き分けも見事だと、今思えば氏の大きさ深さも知らずに生意気な感想を抱いたのだった。
 それから間もなく、氏の略歴にはほぼ必ず書かれる直木賞辞退のこと、それに続く毎日出版文化賞、文藝春秋読者賞の辞退という事実を知った。一貫して賞を断る人だったのである。その作家の名前を冠した賞をいただくというのは、どういうことになるのか。第一回である。前例はない。受賞が決まってインタビューを受けたりしながらも、あの世で氏は怒っているのではないか、という後ろめたさが消えなかった。一回目が断れば前例になる。それこそが、氏の望むところだったのではないか。ふさわしいことだったのではないか。亡くなったことをいいことに「光栄」だなんていって写真など撮られていていいのか。「よじょう」の宮本武蔵への反感、軽蔑は、只事ではない。そこまでいわなくてもいいだろうというくらいきびしい。そういう人の賞を貰ったのだ、ただ「ありがとう」じゃあすまないだろう。作家の思いにこたえる反骨への敬意を口にすべきではないのか。しかし口にすると「辞退します」というところへ行ってしまうかもしれないし、それは賞を創設した新潮社を困らせるだろうし、そんな大事(おおごと)を生きる器量も趣味も私にはないしと、結局のところ流れのままに時は過ぎて行った。これもはじめて書くことだ。書かずもがなの事で、書くのを迷っていた二つめのことである。
 それから何年もかけて氏の御作は時々集中して癖のようになって読んだ。インタビューする人の中には賞を貰ったのだから氏の作品を好きなのは当り前だろうというように質問をする人もいた。じゃあ芥川賞を貰った人はみんな芥川を好きか?と妙な気がしたりしたが、私の場合は僭越だが、やや徐々に好きになっていった。馴染んだし、一作一作油断がなく、漢字の使い方、会話に託す時代表現や方言のほどがいさぎよくて気持がよかった。やはり『樅ノ木は残った』はその頂点の御作だと思った。今回の全集の第一巻を改めて読んでなつかしかったが、実に丁寧にルビと脚注が付せられていて、高級旅館で行き届いた仲居さんにかしずかれているような気分になった。氏が考える「いい男」の属性を一点原田甲斐に悠々と集中させて行く手際は見事だった。
 但し、これが氏のベストではない、といまの私は思っている。
 先に触れたが、『青べか物語』である。読了して亡き前夫人に「あなたは『大衆作家』のお嫁さんじゃありません」と声をあげたかった。いや「大衆作家」ではあっても、あなたが軽侮するような「大衆作家」ではない、と。
 読んだのは、もう十年ほど前だと思う。
 この作品を私は随筆のようなものだと誤解していたのである。たまたま目にした氏の随筆が、その小説に比べると生彩のないように感じ、氏は時代小説に限ると勝手な思い込みをしていたのだった。
 買ってはいたので、ふとその気になって読みはじめて、やめられなくなった。宮本常一の『忘れられた日本人』の「土佐源氏」を読んだ時の興奮が甦り、しかしこれは聞き書きではなく、厳然と小説であり、対象の人数も多く、浦安に暮らす人々と作者の交渉を描いて、作者の台詞は一切書かないという技巧も淡々と貫いている傑作なのだった。私は氏への敬意が足りなかったと羞じ、じっとしていられず家の中を歩き回った。
 その時、電話が鳴った。
 私にある賞を下さるという電話だった。
 私はたまたま『青べか物語』を読み了えたところだということを、こみ上げるように氏からの啓示ではないかと感じ、その賞を辞退してしまった。これで勝手ながら氏への落し前をつけたという気持になっていた。
 なんの賞だったかは、辞退したことは人にいわないと私から申し出たので、ここでも書くことは、やはり出来ない。

 (やまだ・たいち 作家)

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