インタビュー
2013年5月号掲載
『ぼくがいま、死について思うこと』刊行記念インタビュー
死後の世界はけっこう楽しみです
あっちの世界に行ったら探検してみたい。それを書きたくなるだろうなあ。死ぬことにあまり怖れはないんです。
対象書籍名:『ぼくがいま、死について思うこと』
対象著者:椎名誠
対象書籍ISBN:978-4-10-345621-6
前期高齢者
――椎名さんは今まで二四〇冊くらいの本を出していますが、この本はこれまでにないテーマとトーンですね。
六十代後半に差しかかった頃、ぼくの主治医である精神科医の中沢正夫先生が、「椎名さんは自分がいつか死ぬ、病気になって生死の間をさまようなんてこと考えていないでしょ」と、半ば叱責するような感じで言ったんです。
――先生はなんでそんなことおっしゃったんでしょう?
ずっとぼくの行動を見ていますからね。ぼくの健康のためというよりも、あなたは作家という、人の人生にかかわる職業をしていながら、少しはそういうことを考えてもいい年齢になったんじゃないんですか、みたいなニュアンスだった。その時は、素直に「そうだな」と思いました。
――それで死について考えはじめたんですか?
いや、すぐに忘れちゃった(笑)。まだまだ草野球やってもホームラン打てたし、酒もうまく飲めていたし、肉体的衰えなんてこれっぽっちも感じていなかった。でも、数年前から肉親や友人たちが何人か死ぬようになった。それが、けっこう自分には大きかったかな。ガンで亡くなった「あやしい探検隊」の二人は年下でしたしね。
――ご友人の訃報に接した時、どんなことを思いました?
まず、死因が気になりましたね。まだまだ、死ぬ年齢じゃない。しかも、アウトドア系で元気なやつらばかりだったから。結局、冬山で行方不明になったネイチャーカメラマンの岡田昇さん以外は、ガンでしたけど。
――今年六十九歳になる椎名さんは「前期高齢者」に属しますが、自覚はありますか?
自分が前期高齢者だって今の今まで知らなかった。オレ、異常に足腰が強い。若い頃は格闘技や登山をやっていたし、本にも書いたけど今でもスクワットや腕立て伏せは毎朝欠かしてない。
――でも、若い頃とちがうなと少しは思う時もあるのでは?
三匹の孫と接する時かな。孫って神様ですよ。オレ今年で六十九歳だけど年齢って負い目に感じない。孫のことも平気で書いちゃう。作家の中でもイメージがあるので孫持ちだと言わない人、けっこういるってこの間、友だちで書評家の目黒(考二)が言ってた。
――酒量も変わらない?
変わらないね。三六五日、毎日、飲んでる(笑)。
――人間ドックは二年に一度入っていると聞きましたが。
ある時、女房にね、「義務がある」と言われたんですよ。孫ができた頃かな、「あなた一人の命じゃないでしょ」と。それまでは、ほとんど自分の健康なんて気にしてなかった。
――今度の本では、一歩間違えると命を落としていたような、ご自身の「危なかった遍歴」も書いていましたね。
相当、無茶してきましたから。人とは逆だと思うんですけど、オレ年をとった方が死ぬ確率が減っていますよ。
――九つのエピソードをお書きになっていた。
最初は十歳の時。神社の階段で遊んでいて後頭部を強打した。脳内出血を起こしてひと月入院しました。二十一歳の時の交通事故はすさまじかった。猛スピードで電柱に激突し、顔面と頭部裂傷、脳内出血でひと月以上入院。骨が露出していたらしい。顔の傷は今でも残っていますよ。仕事をするようになってからも「遍歴」は続く。海外取材が増えたせいか国外がほとんど。しかも車か馬に乗っている時の事故が多かった。
あると思った方が楽しい
――ところで、死後の世界はあるとお書きになってますが。
人間って、いつの時も今現在が一番英知があって、科学の粋を極めた完成された時代と思いがちなんですね。たとえば、アレキサンダー大王の時代もそうだったと思う。徳川家康の時代も。ところが、もちろんそうじゃない。少し前までインターネットなんて、誰も想像できなかった。だから、現代もそう。百年後、どんな社会になっているかわからない。
百年後の世界から二〇一三年を見たら何もわかってないんだなあと思うはず。なんだ、まだこいつらはトイレで貴重な紙を使ってる。えっ、電気を原子力でつくってるの? なんて。医学的に内臓や脳についてはある程度わかっているのかもしれないが、人間という生命体の不思議さについて現代のわれわれはどのくらいわかっているんでしょう。わからないものについては、全然わかっていない。その中に、死後の世界というのが含まれると思うんです。
われわれが科学的に理解できていない不可思議な領域というのがある。でも、ぼくはそれらが存在すると思っている。そのあたり、科学者は真剣に議論・研究していない。科学的に証明しづらいし、とんでもサイエンティストというレッテル貼られてしまいますからね。だから、現代の人間の学問の中には非常に不安定で不確かなものが残ってしまっているんです。
死後の世界は存在しないと、誰も証明できないですよね。証人もいない(笑)。死後の世界は、あると思った方が楽しいですよ。死んだあとも楽しいことが待っていると思った方がよくありませんか。
――眠るように死んでいったらつまらないですかね。
きっと、アリさんはすっと眠るように死にますよ。アリさんは死ぬ直前に、走馬灯のように一生を思い出さないでしょ(笑)。
そういえば、ちょうどこの本の校了寸前に、亡くなられた動物行動学者の日高敏隆さんの最後の著書『世界を、こんなふうに見てごらん』(集英社文庫)を読んだんです。その中に、こういうくだりがあった。
人間とそれ以外のあらゆる生き物との違いは何か。それは、人間以外は「自分の死を考えないこと」。たしかにミミズも、空をとぶ小鳥たちも、死というものを考えてはいないでしょう。切りとった葉をくわえて整然と行列を作っているアリさんたちがフト、「明日自分は死ぬかもしれない」と考えることもないと思う。死のことを考えることができるのは人間だけ。だから一方で、地球環境など未来のことを考える責任もあるんだと思う。
最後の晩餐
――死後の世界はどんな様子だと?
全然想像もできないくらい素晴らしい世界なような気がしているんです。体重も関係ないから、肥満の悩みもない。見た目の美醜もない。金持ち、貧乏もなし。善人は天国へ、悪人は地獄へという善悪の別もない。アリさんの命もおれたちの命も同じ。五百億円の資産を遺そうが、借金を抱えていようが、不眠で苦しんでいようが、あっちへ行ったらチャラ。
――身体はあるのですか?
いや、ない。思念の世界です。魂というかな。そう考えないとね、計算が合わないと思う。ぼくたちをこの世に誕生させた「何か」が、まずあるわけですよね。その何かがあって、肉体ができる。肉体が消滅するから、その「何か」も消えてしまうというのでは算数的に正しくないだろうし、あまりにも無意味というか、つまらない。肉体と生命というのは別個のものなんです。その「何か」が、どこかに溜まっている、いままで人類として生まれて来た数だけ。地面の下なのか、雲の上なのかはわからないけれど。
イメージとして反物質的世界に近い。聞きかじりですが、素粒子理論によると、物質には必ずその対となる反物質があるという。それと同じことだと思うんです。生という物質世界があって、その対となる死という反物質世界がある。でも、その二つの世界はまず出合うことはない。大きなエネルギーを出して消滅してしまいますからね。
――死ぬのは怖いですか?
いや。新しい世界にパスポートをもらって入っていけるわけでしょ。じっくり探検してみたい。でも、元の世界にその様子を知らせたいと思うでしょうね。どうやって伝えればいいんだろうって、いらつくだろうなあ。
――「最後の晩餐」に何を食べたいと聞かれたら?
食べられればいいですよね。身体がそんな状態にないかもしれない。空腹だったら、食うでしょうけど。ま、どうでもいいっちゃ、どうでもいい。
――大好物のカツオと答えるかと思っていましたよ。
えっ、オレの人生、カツオで終わるんですか? それじゃあちょっとさびしいなあ。
(しいな・まこと 作家)