書評
2013年7月号掲載
第三の傑作誕生
――青山文平『流水浮木 最後の太刀』
対象書籍名:『流水浮木 最後の太刀』(新潮文庫改題『伊賀の残光』)
対象著者:青山文平
対象書籍ISBN:978-4-10-120091-0
青山文平はとかく玄人好みの作家であるとか、時代小説上級者向けの作家であるとかいわれているが、私は彼こそが平成の御世に新しい士道小説の地平を拓く作家であると確信している。
第十八回松本清張賞を受賞した第一作『白樫の樹の下で』は、浅間山の大噴火や諸国に大飢饉がおこり、田沼時代が終焉を迎えようとしている天明期、作者は一人の抜きさしならぬ人物、貧乏御家人の村上登を創造した。彼の武士としてのアイデンティティを求めていくさまが、辻斬りの下手人の探索と並行して描かれていく。「当世、剣は怪我をしてまで突き詰めるものではない」とうそぶき、自分はでは何故武士なのか、いや、武士である理由は何か? 登がそれを考えるようになったのは、同じ道場仲間で、商人でありながら、なかなかの使い手である巳乃介が、佐野政言が田沼意知に斬りつけた名刀「一竿子忠綱」を登にあずけたことがきっかけである。その巳乃介は、武家の養子に迎えられ、小人目付に。貧乏で五年間、竹光を差していた登の鬱屈は増すばかりだ。一寸の虫にも五分の魂とばかりに、気負いだけはあるものの、実力を発揮できない底辺の武士たちは、いま、私たちが生きている世の、年収二〇〇万とも三〇〇万ともいわれる意に沿わぬ仕事に就きつつ、口を糊していく庶民の姿であろう。その中で、辻斬りによって大事な人々を失っていく。近来、これほど武士の苦悩を突きつめた力作はない。
そして第二作『かけおちる』は、日本を取り巻く状況が、大きく変わりはじめた寛政年間を舞台としており、幕閣の政治や派閥が次々に、命の軽重、信頼、裏切り、ギリギリのところで危難を回避する政治的センスといったものを描き出す中で、前作よりシビアなテーマ「武士は封建時代の奴隷である」というそれが加わる。何しろストーリーの核となるのは繰り返される妻敵討(めがたきう)ちであり、未読の方のために詳しくは書けないが、何故、このような武家の制度が人を救うのか? 作者はとびっきりの離なれわざを用意している。
そして今回書き下ろされた『流水浮木 最後の太刀』には、さまざまな武家――とはいうものの、もはや元伊賀者である内藤新宿・鉄砲百人組の初老の武士、山岡晋平を主人公に「老い」というテーマが加わる。
八代将軍吉宗がお庭番を連れて来たためにもはや閑職同然となってしまった彼らは、侍とはいえ晋平はじめ主だった者たちも、サツキ栽培で生計を立てているていたらく。人それぞれで、同心株を売る者もいる。そんな中、晋平の幼馴染の一人が殺されるが、彼は同心株を売って大金を手にし、百人町を出ていく寸前であった。
とにかく冒頭からさまざまな伏線が張りめぐらされ、複雑なストーリーがラストで一気に収斂する構成になっているので、なかなか論評を加えるのがむずかしいのだが、――たとえば、冒頭の殺しは晋平をある組織に引き合わせるための行為だったのだが、それならそれで、何故、そんなことのためにひと一人、殺されなければならないのか。
晋平の、いや、青山文平作品共通の「一寸の虫にも五分の魂」というテーマにここで火がつく。もはや、幕府の隠密組織は、遠く晋平の理解ができぬところまできており、表と裏の隠密御用もあれば、殺し屋もどきの真似をする者もいる。還暦を過ぎてまで組織の歯車となるのは御免こうむるとばかりに、まなじりを決する晋平の姿に読者は大いに共感を得られるに違いない。
そして、作品のはじめとラストを飾る、黄花のサツキと青いサツキのイメージは、ストーリーのさまざまな象徴となり、かつ、このともすれば血腥くなる物語に向日性を与えているかのようだ。青山文平作品に私たちが魅力を感じるのは、恐らく、主人公が超人的なヒーローではなく、己れの居場所を求めてもがき、時代に抗い、かつ、生活の匂いのする武士だからではないか。第三の傑作の誕生である。
(なわた・かずお 文芸評論家)