書評・エッセイ

2013年7月号掲載

引き裂かれてある人

――中島岳志『「リベラル保守」宣言』

内田樹

対象書籍名:『「リベラル保守」宣言』
対象著者:中島岳志
対象書籍ISBN:978-4-10-136572-5

 あるシンポジウムで中島さんと隣り合わせになったことがある。その語り口に惹き付けられた。気負いと遠慮の入り交じった、少しつんのめるような早口の語りを聞いて、「いい人だな」と思った。気負いと遠慮が入り交じるのは「対話的モード」の際立った特徴だからである。自分には言いたいことがある。でも、他人の言いたいことにも耳を傾けたい。対話的モードというのは、「話したい」と「聞きたい」という相反する要請に引き裂かれた状態のことである。中島さんはその意味ですぐれて「対話的」な人だと思う。だから、その人が「リベラル保守」というアンビバレントな政治概念に親近性を持つことには必然性がある。
 中島さんによると、リベラル保守は二種類の原理主義を退ける。一つは左翼の「進歩主義」「設計主義」、すなわち「人間の理性によって、理想社会を作ることが可能と考える立場」。一つは「過去の一点」においてすでに実現されていた理想社会に帰還すべきであるという「復古主義」。
 リベラル保守は未来であれ過去であれ、完全な社会などというものが実現するはずがないという立場に立つ。私はこの意見に同意する。
 私たちはそのつどの歴史的条件に規定されたさまざまなかたちの「不完全な」社会に暮らしている。その不完全さを改めようと人類は長く努力してきた。そして、その歴史的経験は私たちに二つのことを教えてくれた。
 一つは、人間は制度改革において長期的には「わりとましな」方向に向かっているということ(女性の解放や、教育や医療の充実や、宗教的自由についてはそう言えると思う)。もう一つは、短期的には取り返しのつかないほどひどい間違いを何度も犯したということ。この二つである。
 ここから導かれる経験則を一言に尽くせば「慌てるな」ということである。リベラル保守の実践指針もそうだ。社会改良に際しては「改めるべきもの」と「変えてはならぬもの」をていねいに腑分けするという手間ひまのかかる仕事を避けてはならぬ。中島さんはそう説く。
 だが、改革派の人々はこの面倒な仕事を嫌う。彼らは「スピード感」や「決定力」や「突破力」に偏愛を示す。改革の適否は二の次で、制度破壊が速くかつ暴力的であるということそれ自体に価値を見いだすのである。
 かつてカール・ポパーは「変えてよいものと変えてはならぬもの」を冷静に識別して、できるところから一つずつ改めてゆく手続きを「ピースミール(piecemeal)」という工学的な語で言い表したことがある。たぶんポパーがこの語を選んだときに、彼の脳裏にあったのは煉瓦を一つずつ積んで家を建てる労働のイメージだったのだと思う。制度改革は冒険でも祝祭でもない。それは日々の地道な労働として遂行されなければならない。ポパーはそう考えていた。一日働いたら、家に帰って、風呂に入って、家族と食卓を囲んで……というような生身の人間の労働力再生産に必要なだけゆったりとしたペースでなければ制度改革は果たされないと考えた。一時の熱狂がついに「一時」のもので終わるのは、生身の人間は連続的な祝祭や熱狂的な滅私奉公に長くは耐えられないからである。「それでは身体が保たない」という訴えは政治の暴走を食い止めるきわめて有効な制動装置なのだ。
 リベラル保守は人間の生き物としての訴えに配慮するだけではなく、「歴史的に蓄積されてきた社会的経験知」と「慣習や社会制度を媒介として伝えられてきた歴史の『潜在的英知』」(33頁)にも耳を傾ける。
 改革派の人々は、進歩主義者も復古主義者も、「経験知」にも「潜在的英知」にも敬意を示さない。前者は「最新のものが最高」だと信じているがゆえに、後者は「歴史は一方向的な堕落の過程」だと信じているがゆえに、歴史の風雪に耐えたものが伝えるかすかなメッセージを聞き取ることには関心がないのだ。
 中島さんが「リベラル保守」と呼ぶのはこの二つの「ものさし」を使い分ける知的態度のことだと私は解している。一つの「ものさし」は有限の身体資源を使って生きるしかない生身の人間という尺度であり、もう一つは歴史過程を通じて顕現する集合的英知のはたらきである。その二つを手にして政策選択の適否について吟味している「クラフトマン」の姿を中島さんのうちに見て、私は深い共感を抱くのである。

 (うちだ・たつる 思想家・武道家)

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