書評
2013年12月号掲載
最大級の狂気の歴史
――石井光太『蛍の森』
対象書籍名:『蛍の森』
対象著者:石井光太
対象書籍ISBN:978-4-10-132536-1
――四国の山の中に、ハンセン病患者だけが通る遍路道があった。
そのことを知ったのは、私が高校生の時だった。宮本常一と赤松啓介という二人の民俗学者の著書を読んだのがきっかけだ。
ハンセン病に対する隔離政策が国家主導で行われていた時代、患者たちは故郷を追われ、村人や警察の追っ手を逃れるようにして四国の山中に身を潜めた。そして八十八カ所を回ることで病気の治癒、あるいは来世健全な体で生を受けられることを祈ったのである。
日本では国の隔離政策を語ることはあっても、歴史の陰にあった、この悲痛な過去は明らかにされてこなかった。患者たちがいかなる思いで密林の中を亡霊のように歩き回ったのか。そこに差別の本質、犠牲者たちの祈りや宗教観など多くのものが内包されているにもかかわらず、記録に留められることはほとんどなかった。
私はそのことに疑問を感じ、なんとか自らの手でこのテーマで本を著したいと考えていた。それで機会を見つけてはハンセン病患者に話を聞くようにしてきたが、密林の奥で起きていた差別の実態を明らかにするのは容易いことではなかった。遍路経験のあるハンセン病患者は全国の療養所に分散していた。その大半はすでに死亡しており、わずかな生き残りも過去をふり返ることを嫌がって口を閉ざした。療養所に暮す彼らの友人や職員でさえ、その話を細かく聞いているのはごく稀だった。
それでもなんとか断片的に得られた話は、短くとも耳を塞ぎたくなるほど残酷な内容だった。家族に捨てられて山中にこもらざるをえなかった無念さ、食べ物さえない中で深い森を歩く孤独、生きるためには罪すら犯さなければならない宿命、それでも同じ者たちが集まってわずかな幸せを分かち合って生きようとするたくましさ。どの話からも、人間が生きることの業を思い知らされた。
これをテーマにして小説を書こう。
決心を固めたのは、二〇一一年の夏だった。これまでドキュメンタリーを主戦場にしてきた私にとってこの小説を書こうと思い立った理由はいくつもある。あえて三つ挙げれば次の通りだ。
第一に、証言者や資料が限られているため、このテーマで真正面から時代背景も含めて描くには小説という形が最適だった。
第二に、東日本大震災の取材を終えて作品の完成にこぎつけていた私には、あれ以上のテーマを見つけるのは難しいという気持ちがあった。大きく自らの立ち位置や方法論を変えない限り、巨峰を這って越えるような創造体験はできない、と。
第三に、私は二十代で物書きとしてのキャリアをスタートした際、三十代の半ばまではドキュメンタリー一本でやってから次のステージに進もうと決めていた。若いうちに誰もできない体験を体に焼き付けたいという気持ちがあったためだ。二〇一一年は、その年齢にさしかかっていた。
まさにこうした時期に、真っ直ぐに本音をぶつけてくれる編集者・照山朋代さんに会った。しかも彼女の専攻は民俗学、遍路の経験もあるという。それでこのテーマの小説化を決心したのだ。
ただ、これはあくまで著者である私にとっての理由だ。本書を読めば、読者はまた別の理由に思い当たるのではないか。日本が生んだ最大級の狂気の歴史は、なぜ小説でしか書かれえなかったのか。四百ページ余にわたる本書を閉じた時、密林に消えていったハンセン病患者たちの生命の輝きとともに、日本が今に至るまで抱えている別の矛盾もまた垣間見えるものと確信している。
(いしい・こうた 作家)