書評

2014年4月号掲載

解放を読む幸福

――滝口悠生『寝相』

小山田浩子

対象書籍名:『寝相』
対象著者:滝口悠生
対象書籍ISBN:978-4-10-335311-9

 取材を受けることがある。今までの人生というか、過去について聞かれる。いつごろ、どんな本を読みましたか、書き始めるきっかけは、等等。逐一真面目に答えようとするのだが、話しながらいつも混乱する。私によって語られている私の人生が、どうも何だか変で、つじつまが合わなくなってくるのだ。小学生だった私はAという本を読んで感銘を受けたのだが、Aを読むきっかけになったBという本を従兄からもらって初読したのは中学二年生の夏休みだったりする。どちらかの記憶が間違っているのだろうが、それがどちらも絶対に間違っていない確信もあり、そのときの匂いや湿度や後日談などまでが鮮明に蘇ったりする。出来上がった記事を見て混乱は増す。確かに私の言ったことがまとめられている。どこをどう読んでも間違ってはいない。しかし、そこに書き並べられているのは、私のものとは決定的に何かが違う私の過去だ。
 表題作「寝相」において中心的に語られる人物、竹春は、山っ気を出しては事業に失敗し借金を作り何度も愛人を作った挙句妻に出奔され娘に恨まれがんのため胃を摘出し一人暮らしがままならなくなり孫娘であるなつめの家に引き取られた老人である。小説では、竹春の父母、妻と娘、愛人だった女たち、なつめの恋人、なつめの住む家の木目、などのエピソードが、どれが本筋でどれが枝葉なのかわからない密度で語られ、積み重ねられる。まさにそれは竹春の時間、歴史である。それは間違いないのだが、読みながらどこか混乱するような感じがある。
 我々は時間というものを、過去から未来へまっすぐ流れる均質なものと認識してはいないだろうか。教科書に載っている歴史年表のように、直線的に一方向を目指すような時間。しかし本当は、時間というものはぐるぐる渦を巻いたり、どろりと垂れ落ちたり、別の何かと混じってゆるんだり勃然と固化したり入れ替わったり遡ったり猫めいてじゃれたりしながら存在するものなのではないか。ときに未来が過去に先んじてもおかしくないし、過去も現在も未来も、過ぎてしまえば消えてしまうわけでもない。それはただ、ある。「寝相」は、時計や手帳を持って毎日を区切り、なんと立派なだの鳴くよウグイスだのと言って特定の年月日を抽出し並べてそれが歴史だと教育されている我々の、固定観念に縛られた時間を、一つの家族について語ることを通して解放しようとする小説なのではないだろうか。
 一人の人間の中には膨大に凝集されかつ忘れられた時間が存在している。印象的なシーンがある。竹春の背中をなつめが拭く。「竹春の背中は、いろんな濃さの染みが重なり合い、混じり合っていた。(中略)手のひらの先にあるのはたしかに骨と肉と皮、人間の体なのだけれど、そこからなつめの体に流れこんでくるのは、長さでも、記憶でもない、なにか物と化し、脈打つような竹春の時間だった。」竹春の背中には、自分一人のものだけではない、親や孫子やそのもっと先や友人やただすれ違っただけの人の分までも、「脈打つような」時間が内包されている。その手触りがある。そのことを、本人には直視できない背中を拭くことによってなつめは知る。小説の最後、時計的な時間を超えて、竹春の過去現在おそらく未来までもが邂逅し語り合うような場面がおとずれる。おそらく、竹春はもうそう長くは生きまい。しかし、背中を拭くという行為によってなつめは竹春の時間を継承する。そこまでいかなくとも少なくともそういう時間があることを実感する。それを寿ぐような祝祭的な最後の場面は、今まで読んだこともないくらい幸福なものだった。
 初出順とは真逆におさめられた本書の三篇を読むと、我々が固定観念としてこういうものだと思っている物事を、ひいては世界を、そこから解放しようというような作者の意思をとても強く感じる。そういう小説はもっと骨ばっていても不思議ではないような気がするのだが、どの作品もむしろ軽やかで柔らかい。鮮烈な描写(「楽器」におけるパセリの葉の弾ける音!)と抑制されたユーモア(「わたしの小春日和」での小学校教師坂口による珍妙な卒業式妨害計画……)があり、何より読んでいて、そして読み終わったときにほかに類を見ないような幸せな感覚がある。この、唯一無二の小説家の誕生を、一読者として心から大喜びしたい。

(おやまだ・ひろこ 作家)

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