インタビュー
2014年6月号掲載
『明治の表象空間』刊行記念 インタビュー完全版
言葉のあらゆる領域を踏破する
―【「波」デジタル版限定】特別ロング・インタビュー― 聞き手:編集部
対象書籍名:『明治の表象空間』
対象著者:松浦寿輝
対象書籍ISBN:978-4-10-471702-6
いろはの「い」から
――『明治の表象空間』は、A5判・七〇〇ページ超と、松浦さんの中で最も長大な本となりました。「新潮」連載は二〇〇六 ― 一〇年の五年間(全五十回)でしたが、構想はいつごろからあったのでしょうか。
松浦 一九九五年に『エッフェル塔試論』と『折口信夫論』を出しました。別々の出版社から刊行した二冊なのですが、たしか見本が出来てくるのがほんの一日違いだったのを覚えています。意図したわけではなくまったくの偶然ですが、ほぼ完全な同時刊行ということになりました。この二冊は、一方は十九世紀フランス文化史、他方は日本の歌人・民俗学者の言説分析と、まったく異なる主題を扱っています。両者を目の前に置いて、さて、ではこの二つの異質な仕事の間にどういうかたちで橋を架けたらいいのか、といったことは当然、考えますよね。そういうこともこの本の構想の端緒にあったような気がします。
それから、それとはちょっと別のこととして、「日本近代詩歌史」を書いてみたいという漠然とした構想もあったんです。詩・短歌・俳句をジャンルの別なく通覧して、広い意味での「ポエジー」の、近代日本における系譜の流れを、一貫したパースペクティヴのもとで通史的に叙述するという仕事です。これは、深く掘り下げた研究といったものではなく、単なる通史です。日本の詩にとってそれが必要だと思った。日本では詩と短歌と俳句を隔てる垣根が高すぎる。これは異常なことですから。
実際、昭和四年に初版が出た日夏耿之介の『明治大正詩史』(これも新潮社刊ですね)のような趣味的なもの以外に、そういう通史が実は、今に至るまで案外ないのです。加藤周一さんの『日本文学史序説』の近代詩歌の部分など、むろん非常に不十分なものですし。文学史というのは(美術史でも政治史でも同じですが)、それぞれの史家の視点により文学観・歴史観により、複数あってかまわないし、むしろ複数あるべきなのですが、日本の近代詩歌に関しては、後続の史家からの批判の対象となるべきまともな「正史」さえ、そもそも存在していない。では、それを自分が試みてもいいかな、と。
──ぜひ書いていただきたいです(笑)。
松浦 いや、私はもう無理ですが、これはいずれ誰かがやった方がいいと思いますよ。上質の詩的感性を備え、かつリーダビリティの高い文章を書ける国文学者とかにやってほしい。ともかくそういう気持ちもあって、一九九〇年代以降、大学では、一方で映画を教えながら、他方で『新体詩抄』や透谷や子規や藤村を読んだりといった授業をやっていたのですが、そのうちに詩歌だけではなくて、もっと総体的に明治の言説を読み直したいと考えるようになっていきました。大学院の講義や演習のテーマも中江兆民や福沢諭吉に移っていった。やがてそれが、自然な成り行きで、『平面論── 一八八〇年代西欧』『エッフェル塔試論』『表象と倒錯──エティエンヌ=ジュール・マレー』という、かつての「一八八〇年代三部作」で扱った主題群の、近代日本における移植と開花の諸相の追求という相貌を帯びるようにもなっていきました。「一八八〇年代論」を日本の対応時期にスライドさせてみるとどうなるか、その日本ヴァージョンといったものがありうるのかありえないのか、という問題ですね。
「国体論」という論文を東京大学出版会の叢書『表象のディスクール』のために書いたのが二〇〇〇年の春で、たしか芥川賞騒ぎの直前でしたかねえ。あの論文は、近代日本における「表象」の運命というこの問題にアプローチするための、一種の試し書きのような仕事でした(今回かなり書き直してこの本の序章の位置に組み込みました)。まあ、そういうあれやこれやいろいろな事情が絡み合う長い前史があって、そのうえで二〇〇五年の十一月からいよいよ本体部分の執筆を始めたわけです。
――構想に四十代、執筆に五十代のすべてを注ぎ込んだ、とても大きなお仕事になりましたね。
松浦 私の三十代・四十代は、二十代で勉強したことを食い潰して、その利子で生きてきたような感じでした。三十近くになって大学助手に着任し、教師業を始めて、そうなるととたんに忙しくなって、以後、根本的に新しい知的チャレンジに乗り出すことができなくなってしまった。このまま預金を食い潰しながら年を取っちゃうのは情けないなあと思い、もう一度勉強をし直したかった。
私が尊敬している思想史家の藤田省三は、四十四歳のとき法政大学を依願退職するのですが(ただし五十三歳のとき同大学に復職)、その後、猛烈な勢いで「いろはの『い』から」勉強のやり直しを始めたと回想しています。過激な人ですよね。誰にでもできるようなことではない。大学を辞め、白川静の『説文新義』を座右に置いて史記を原文で精読するといったことを始めたらしい。ベンヤミンを集中的に読んだのもその頃でしょう。直接何かに役立てようというのではない、基礎体力をつけるための勉強です。自由な知的好奇心のおもむくままの勉強、というか、自分の知的好奇心それ自体をもう一度鍛え直し、再賦活するための勉強です。そういう勉強の厚みが、最終的にはあの名著『精神史的考察──いくつかの断面に即して』(一九八二年)に結実してゆくことにもなった。
いったん初心に還って、迂遠なようでも、この「いろはの『い』から」ということを──つまり自分の知識のデータベースの思い切ったリブートをやらないと、食い潰しの一生で終わってしまうことは明らかでした。ただし、私の四十代の場合、大学を辞める決心はつかず、だから授業や会議や学生の指導で日々目が回るほど忙しいし、プラトンやホメロスをギリシャ語で読むとか、日本史のくずし字の史料を自由に読めるようになるとか、そういう根本的なトレーニングから始める余裕はなかった。ただ、明治日本の言説に分け入ってゆくというような仕事ならば、四十代からチャレンジしても辛うじて何とかものになるんじゃないかと思いました。
「自分の国の土」にまみれる
――仏文学者の松浦さんが、その明治日本について書こうと思った理由をお聞かせください。
松浦 フランスの文学や思想はとても面白く、知的刺激に満ちていて、二十代の頃はその勉強だけで満足していたし手いっぱいでした。しかし、西欧の文物の研究によっては解消しきれないものが私のなかに滞留していることをずっと感じていました。その歴史の重みを背負いつつ今ここに私が存在しているところの、「近代日本」という大きな主題ですね。それは知的探求の対象となるような「頭脳的」なテーマではなく、もっと直截に、「内臓的」というか、私の身体深くに喰い入って、その下半身を構成しているような種類の問題系です。その問題が、フランス文学研究によっては十分な表現の言葉を与えることのできない大きな空白として、私自身の人生のなかに残されていた。それがある年齢になったとき浮上して、なまなましい存在感で私に迫ってきたようなところがありました。
しかし、そこで安易なナショナリズムに回帰しちゃうと、和辻哲郎みたいなことになってしまう。それこそまさに「近代日本」の知識人の宿痾であるところの、「日本回帰」というやつですね。和辻のような素朴な日本礼讃に行ってしまうのとはまったく違うかたちで、フランスの文学や文化について考え書いてきた方法論を堅持しつつ、自分の中に残留している日本という深層部分を解明することができるのではないか、という漠とした展望はありました。
「仏文学者の松浦さんが──」と今おっしゃられて、たしかに私は仏文学者でもあるのですが、フランス文学研究の「正道」にいたのはせいぜいパリ第Ⅲ大学に博士論文を出したあたりまでで、その後は実は、グレてゆく一方だったんです(笑)。最初に触れた『エッフェル塔試論』や『折口信夫論』にしても、すでにまともな仏文学者なら手を出さないようなことをやっていたわけで。
──東大駒場で「表象文化論」というコースに所属されていたことも関係があるんでしょうか。ここはまさに「表象」研究の拠点で、東浩紀さんや千葉雅也さんも在籍されていたところですね。
松浦 そう、一九八〇年代末に駒場に創設された「表象文化論」という学科・専攻は、グレた仏文学者にはたいへん居心地が良い環境でした。同僚の先生たちはひと癖、ふた癖ある面白い方々ばかりでしたし、東さんや千葉さんをはじめ学生諸君も優秀で、彼らから日々、大きな刺激を受けることができて有難かった。まあそういう成り行きで、フランス研究の「正道」からは逸れに逸れ、とうとう明治論まで行ってしまった。実際、この本の執筆中、フランスというか西欧の存在感は、私の中で相対的には稀薄化せざるをえませんでした。
私は五十代に入って、仕事で外国に行くのをやめてしまったんです。三十代、四十代の頃は講演やらシンポジウムやら、客員研究員やら客員教授やらに呼ばれると、フランス、アメリカ、中国など、面白がってけっこう気軽にほいほいと出かけていたのですが、それをしばらくの間、禁欲しようと思った。吉田健一はケンブリッジ留学を切り上げて帰国する決心を固め、当地の恩師のG・ロウェス・ディッキンソンのところにそれを報告しに行ったとき、ディッキンソン先生から「或る種の仕事をするには自分の国の土が必要だ」という言葉でその決意を励まされたと回想しています(『交遊録』一九七四年)。聡明な、しかも温かな言葉ですよね。師というものは自分の学生にこういう言葉こそを投げかけるべしという、模範のような逸話です。私自身、長い歳月にわたった教員生活のなかで、こういう言葉を自分の学生に対してどれだけ発することができたかと省みると、忸怩たるものがありますが、ともあれ『明治の表象空間』の執筆中、このディッキンソンの言葉がずいぶん大きな支えになりました。
この本もそういう「或る種の仕事」だったんですね。これを書き上げるためには、自分を日本の内部にいったん鎖し、「自分の国の土」に深くまみれる必要がありました。それで、五十代を通して、外国の大学や文化機関からの招待はぜんぶ断わっていました。やれ学術交流だ、やれ文化交流だと言ってあっちへ行ったりこっちへ来たりしていると、ともかく忙しいから妙な充実感があって、自分が何か意味のあることをやっているかのような錯覚にも浸れます。しかし、そういう自己満足にかまけている余裕は私にはなかった。まあ休暇に、息抜きのための個人的な外国旅行はけっこうしたけれど。
詩でもなく、小説でもなく
──五年間の連載中に行き詰まった時期などはありましたか。
松浦 本当のデッドロックに乗り上げたことはなかったけれど、そうですね……。私の経験だと、たとえば五十枚の原稿を書くとすると、これは評論でも小説でも同じなんですが、私の場合どこが苦しいかというと、十五枚から二十枚あたりがいちばん苦しいのです。十五枚を越え、二十枚に向かって息を切らしながら、胸突き八丁の急坂を営々と這うようにして登ってゆくあの苦しさというのは、何度繰り返しても決して慣れません。二十枚を越えると、不意に視野が開けたような気分になる。それとちょうど同じように、この全五十回の連載というのは、十五回から二十回あたりがいちばん辛かったかもしれない。博物学から『言海』の問題へ向かうあたりですか。それを過ぎて、何とか書き切れるのではないかという気持ちが初めて生まれました。
――連載終了後、「書き切」ったあとに、数年をかけて大幅な改稿がなされました。
松浦 二〇一〇年十月に、連載の最終回を書き終えたときは本当に虚脱状態で、単行本化に向けてすぐ動き出す気にはなかなかなれなかった。当時二つの小説が進行中だったこともあり、本書の刊行までずいぶん時間がかかってしまいました。ですが、年月がたってから自分の原稿をもう一度読み直し、徹底的に考え直すというステップがあったことは、いろいろな意味で幸いしたと思っています。書籍化にあたってかなりの加筆訂正を施しました。補助線に使ったアガンベンの議論なども邦訳では隔靴掻痒だったので、イタリア語の原文に当たってぜんぶ検討し直し、引用は自分の訳文を作りました。
――小説家・詩人である松浦さんにとっては久々の長篇評論となります。
松浦 さっきの「日本」の主題ですが、私はそれをまず小説というかたちで言語化しようとしたわけです。私の初めての小説は、一九九六年に本になった『もののたはむれ』で、これは「東京小説」なんですね。フランスに興味を持つようになる以前に、幼少期や思春期の頃に身体の深部に沈澱したもの──自分の育った東京の下町の空気のにおいや質感や夕暮れの光の記憶といったものに表現を与えようと試み、それがああいう短篇連作になっていった。『巴』という長篇小説もそうした流れのなかで書いたものです。また、詩としては、この「内臓的」なイメージの変異のさまを追いながら、『吃水都市』という散文詩の連作を断続的に試みていました。
他方、詩や小説のようなものとはまったく違う分析的な言語で、日本の「近代」とは何だったかを私なりに把握したいという思いもずっとあったわけです。しかしまあ、詩や小説の創作は自分の記憶の中を掘り下げていけばいいわけだし、「東京小説」の先例も永井荷風をはじめ日本の近・現代文学の中にたくさんありますしね。それに対して、近代日本論というのはさっき言ったような徹底的な勉強が必要で、それが『明治の表象空間』に結実するのにかなりの歳月を要したということなんです。
あらゆる表象たち
――内容についてうかがいます。まずはタイトルの「表象」という概念について教えてください。
松浦 平たく言うと、観念やイメージ、像のようなものです。現実をある一定のコードに従った記号体系によって置き換えたもの、読み替えたものが「表象」です。非常に意味の広い言葉で、言語だけでなく、絵や写真や映像・図像、また記憶の想起のような人間の様々な心的現象も含まれますが、『明治の表象空間』ではあえて言語表象に限定しました。たとえば明治・大正の新聞の挿絵や何かをずっと見てゆくと、これも本当に面白いのだけど、いかに大風呂敷の主題設定とはいえ、まあそこまでは広げずにおこうと。従ってタイトルは「明治の言説空間」でもよかったのですが、「表(あら)」わし「象(かたど)」る、という二つの文字でできた「表象」という観念自体、非常に魅力的なエネルギーを秘めた概念なので、明治の思想や文学作品を読み解く上でのキーワードとして採用してみたということです。結局、マルクス主義で言う「上部構造」の全域を貫通して、「導きの糸」となるような方法概念として、私はこの言葉を使っています。
――その表象を踏査していくにあたって選ばれるものはまさにあらゆる言説で、行政から法律、植物学、国語辞典の項目、歴史記述、イデオロギーなど、きわめて多岐にわたります。
松浦 大袈裟に言えば「ありとあらゆる」言説を、ジャンルや学問分野(ディシプリン)をはみ出して横断的に読んでみる。それが「素人の強み」ではないかと考えました。専門領域の仕切りをいったん方法論的にとっぱらって、無差別に通覧してみると、専門家には見えない何かが見えてくるんじゃないかと。「表象空間」の「力線」や「特異点」とこの本の冒頭で呼んだ、そうした大きなトポグラフィーの起伏が浮かび上がってくるのではないか。それを最終的には「理性」「システム」「時間」という三つの系列に集約してみたわけです。
もっとも、素人の強みを生かすとはいえ、趣味的な思いつきのエッセイにはしたくなかった。それぞれの分野、それぞれの主題で膨大な研究の蓄積はあり、それを無視して好き勝手なことを書き散らしても意味はない。できるかぎりそれぞれの領域における学問的知見の最前線はフォローしたつもりです。そのうえで、専門家にとっても刺激的たりうるような新しいアイデアを盛り込もうと努力しました。たとえば国学思想なら国学思想を徹底的に究めようとしたら、契沖や荷田春満から始めて、彼ら一人一人のテクストも、またそれに関する汗牛充棟の研究書も、網羅的に読み尽くさねばならず、これは丸々一生かかってもまだ足りないような主題です。私にはそういう徹底的なことをやる能力も時間もなかった。それにもちろん、そもそも国学の専門家になりたいなんて気持ち自体、最初からないわけで。しかし、だからと言って、皮相な上っつらだけさっと撫でて、いい加減なところでお茶を濁しているだけに終わらせるわけにはいかないという自戒と自負はありました。
「ありとあらゆる」と言いましたが、ただしここに包摂しえなかった領域として大きな欠落が二つあって、一つは宗教、もう一つは自然科学です。この関係の文献もずいぶん読んだのですが、通説を超えるような発想は私にはついに訪れませんでした。だから、内村鑑三にも触れていませんし、国家神道や民間信仰の問題にも立ち入っていません。何か、言われるべきことはもうすべて言い尽くされているような気がした。科学に関しても、エレキテルの平賀源内と、『進化論講話』の丘浅次郎や『海の物理学』の寺田寅彦との間をどう繋ぐかというかたちで問題を立て、ずいぶんいろいろなものを読んでみたのですが、私にとっての成果はありませんでした。
――第Ⅰ部が行政制度・法体系の分析から始まったことには驚きました。これは「狙い」だったのでは?
松浦 ちょっと、かましてみたんです(笑)。やや無謀でしたが、内務省と刑法の問題をまず押さえる。そこまで「表象」の概念の裾野を広げてしまえば、続きが書きやすくなるんじゃないかと。このくらいの大きさにまでは風呂敷を広げてみようということですね。
――「かまし」を経て(笑)、表象空間はもちろん文学にも及びます。大きく取り上げられているのは、北村透谷、樋口一葉、幸田露伴の三人。いわゆる「言文一致」でない言葉たちに光をあてたことは刺激的な試みでした。
松浦 いわゆる「明治文学」には、その後期に森鷗外と夏目漱石という二つの高峰がそびえています。彼らがそのめざましい大才でもって、「言文一致」の見事な散文の実例を創出してみせた。おかげでそれ以後を生きるわれわれは、文章を書くうえでとても楽になったわけですが、逆に言うと、ある種情けない貧困のなかに鎖されることになってしまったとも言える。口語体の創出によって切り捨てられてしまった豊かな日本語の財産が、鷗外と漱石以前にはあった。そのあたりをクローズアップしたのがこの本です。
この本の特色をひとことで言うと、鷗外と漱石の出てこない明治論ということになるんじゃないかと思う。まあ、全然出てこないわけではなく、挿話的な言及はあるのですが、彼らはあくまで脇役にすぎない。それからふつうの明治文学史では大きな位置を占める二葉亭四迷の仕事の意義もほとんど無視しています。あえてそういう暴力的な選択をしたわけで、その選択がこの本の全体を貫く基本的な力線、方法論、構造を決定しています。
この本全体が取り上げる時代は、基本的には明治の前半期に当たります。すごく大雑把に言うと、明治前半と後半の大きな違いは、「言文一致」以前と以後ということになる。明治の前半は、言葉の姿形やスタイルが混沌としたカオス状態で沸騰していて、今日から見るときわめて新鮮に映ります。そこには異質な諸言語がせめぎ合い、江戸時代にはなかったような豊饒な混沌のなかで渦を巻いていた。そして、口語体の創出がもたらしたものは結局、混沌から整序への移行なんです。『言海』さえ引けば、とくに教養もなく文才もない人でも文章が書けるという有り難い状況が出現したわけですね。それはもちろん大変な出来事だったんだけど、私はむしろ混沌期の沸騰するエネルギーの魅力に惹かれたわけで、そこで起きていたことを少し細かく追ってみたかった。
――たとえば法制史を扱った章では、刑法テクストの「混沌」が分析されています。つまり、ジャンルを横断することで時代そのものとのリンクが明らかになる。文学表現においても言葉のカオスが起きていたというわけですね。
松浦 一般的には、「言文一致」が近代日本語の成立であるというふうに語られますよね。「知の民主化」という出来事に重点を置くと、「言文一致」が近代化の大きな駆動装置として捉えられることになるわけですが、私はそれとは別のところに文学の「近代性(モデルニテ)」の本当の可能性があるのではないかと考えました。その可能性の諸相を、むしろ文語体で書いた透谷、一葉、露伴のなかに見てみようとしたということです。「言文一致」の汎用化によって縊り殺されてしまった、「もう一つの近代」ですよね。
透谷と一葉はともかく、露伴を「近代作家」と見なすのは強引といえば強引で、あまりに逆説的な捉えかたと映るかもしれませんが、彼はとにかく広大な精神世界を持っていた人です。今日の日本にはもう存在しえないような知の巨人としての露伴の中には、「『あひゞき』と『武蔵野』から自然主義へ」という日本近代文学のメインストリームから外れた過剰なものがたくさん入っていて、そこに焦点を当てようとしたのです。ちなみに、露伴の最後期に近い「観画談」とか「幻談」とかは口語体で書かれていて、それが一種「現代的」な印象を与え、幻想小説の名品と言われたりするのだけれど、私はむしろああいうのは露伴にとっては単なる手すさびで、取るに足りないものだと思う。「近代性(モデルニテ)」の本当の可能性と今言ったのは、もちろんそれとは全然違うもののことなんです。
いずれにせよこの三人の遺したテクストは、口語体による日本語小説の「軽薄短小」化が行き着くところまで行き着いてしまったかのごとき今日の文学状況のなかで読み直してみると、実にスリリングです。
――文学以外の言説で特にページが割かれているのは、なんといっても福沢諭吉と中江兆民です。
松浦 この二人の対照性は実に面白い。福沢諭吉は日本の近代を一人で支えたような、正面突破型の知識人ですね。自分の生きている時代に必要だったもの、近代日本がこれから獲得しなければならないものを透徹した眼で見通し、それを教育という事業から始めたこと一つとっても、明治の偉人だと改めて感じます。今日の日本があるのは、端的に言って福沢のおかげのようなものでしょう。しかし偉大な教育者・啓蒙家の福沢だけを視野の中心に置いてしまうとまっとうすぎて、もう一つ面白みがない。明治の「表象空間」の風景があまりに単調になってしまう。ところがその傍らに中江兆民という「野人」を置いてみると、福沢も兆民も新たに別の輝きを帯びはじめます。
破天荒な人生をおくった兆民は、時代の大勢に対し絶えず批判を差し向けつづけた人です。その批判は明快なロジックの貫徹した福沢的な正攻法ではなく、アイロニカルな韜晦であったり、『三酔人経綸問答』のように演劇的な仕掛けだったりした。文体にしても福沢の明快な文章とは全然違う晦渋な漢文体で、論理が幾重にも屈折し、断裂してゆく書き方です。文章が難しいから今あまり読まれないのは気の毒だけど、その「読みにくさ」それ自体に生産的な意味がある、そういう文章だと思う。今回、兆民全集を読み通して本当に驚きました。読めば読むほど、私のなかで兆民は大きな存在になっていった。この本はかなりの部分で中江兆民論のようなところがあると思います。
――たしかに、本書には他の思想家たちも多く出てきますが、明確に福沢や兆民とは違っています。
松浦 凡庸な啓蒙主義者は、簡単に日和ってすぐ国粋主義へ転じたりします。時代の大勢に大所高所から批判を加えているかのような身振りを誇示しつつ、自分は損をしないようなかたちでちゃっかりと生きのびてゆく。今日でもよく見かける光景です。そういうのとまったく異なるのは福沢と兆民の二人です。その意味で、福沢と兆民のテクストを読むことには、一種の人間的な感動もありました。
「知の考古学」として
――今までのお話で、表象を徹底して「読み込み、横断する」ことが一つの挑戦であることが分かりました。その方法論の源泉はどこからきたものなのでしょう。
松浦 私はもともと大学は、法学部へ進学する文科Ⅰ類というコースに入学したんです。ところが途中で方向転換して、フランス文学の方へ行ってしまった。立教大学の総長になった政治思想史の吉岡知哉は駒場の同級生で、彼が等々力、私が上野毛で、住まいが近かったこともあり、当時自転車で互いの家を行ったり来たりしてよく遊んでいたものです。もし丸山眞男がまだ現役の教授として法学部にいて、教えを仰ぐことができたら、恐らく私も吉岡のように法科へ進んで、ひょっとしたら政治思想史か何かを専攻していたかもしれない。大学入学直後に読んだ『現代政治の思想と行動』には大きな感銘を受けていましたし。
ただ、その後──というのはフランスで博士論文を書くというような体験をした後になってから、ということですが、丸山の著作を読み返しつついつも思うことがありました。あの博識、あの論理的な思弁力、あの強烈な問題意識、あのジャーナリスティックなセンス、どれをとってもすばらしい。しかし、彼には構造主義以降の知はないのですね。私が学生時代にフランスを勉強していた頃いちばん面白かった(そしてこういうものを読めるようになっただけでもフランス語と親身に付き合ってよかったなあとつくづく思った)ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、そういう名前が彼の教養のなかにはない。丸山はフーコーが来日したときちょっと会っているらしいのですが、その対話の記録がないのが残念です。
また、加藤周一にしても、批評家としてのその「現役」時代がフーコーやドゥルーズやデリダの全盛期と十分重なっているにもかかわらず、彼らの著作にまともに取り組もうとした形跡がない。彼のフランス思想への興味は、サルトルで停まってしまっている。つまり丸山や加藤のような「戦後派知識人」が書いたもののなかには、六〇年代後半以降、フランスから発して世界的に流行した構造主義・ポスト構造主義というものがないのです。まあ、単なる一過性の流行、ファッションでしかないものは相手にはしないと、高を括っていたんでしょう。
──そこには、松浦さんと前世代との差がはっきり刻印されているわけですね。
松浦 そういうことです。フランス語で「六八年五月(mai 68)」とひとことで呼ばれるあの断裂線が、そこに走っている。丸山眞男は大学紛争の際、研究室を占拠した学生をファシスト呼ばわりしていたわけです。むしろ大岡昇平などが、一九八〇年代になって眼を悪くしながら、それでもなお面白がってドゥルーズを原書で読んだりしていたのはやはり大したものだと思いますけどね。
フーコーは、自分のやっていることは「思想史(l'histoire des idées)」ではなくて「知の考古学(l'archéologie du savoir)」だと言っています。私は丸山の仕事には深い尊敬を抱いているのですが、あれはしかし、後期の「歴史意識の『古層』」にしても、やはり「思想史」なんですよ。それに対して、たとえば福沢や兆民たちを、「思想史」の劇の登場人物に還元することなく読むことはできないかというのが私の野心で、結局はずいぶん違うものになってしまったとしても、フーコー的考古学(アルケオロジー)がモデルとして絶えず私の頭にありました。
彼ら明治人が、何を考えたかではなく、具体的に何を書いたか、どう書いたかに照準を合わせるということです。明治期に書かれた多くのテクストの、綾や修辞、語法や文体、反復や省略からアプローチし、そこに浮かび上がってくる言説の表情の特有の起伏とダイナミズムを追うことで、新しい読みができるかもしれない、と。第Ⅰ部の行政制度や法思想の分析のあたりを読んでくださった政治思想史家の苅部直さんからは、「法学部の授業みたい」とからかわれてしまったんだけど、私の意図としてはそうした問題に「表象論」的なアプローチをすることで、まさに法学部の講義とはちょっと違うことをやろうとしたつもりです。
祖型はすべて明治にある
――近代が現代の原型である以上、直接的に「今」につながっているものだと思います。そういった「現在」との関係性が、書くことで見えてきたところはありますか?
松浦 それは警察の問題を扱っているときなどに強く意識しました。「規律型権力」というフーコーの命題を受けて、ドゥルーズが「コントロール社会」という概念を提起し、監視と管理の網の目が張り巡らされた現代社会の状況を語っている。日本の場合は、明治の内務省と警察の機構・制度がこうした管理体制のプロトタイプを作り出し、それが現在に至るまでずっと続いているとつくづく感じました。内務省自体は第二次世界大戦後に廃止されてしまうのですが、管理の思想自体は途切れずに続いて、いっそうの洗練を経て今日に至っている。
私は明治期に進展した「理性化=合理化」と「システム化」の過程を跡づけ、かつそれが孕む権力の問題を考察したのですが、現在はそれが先端的な電子テクノロジーに支えられ、さらに精緻化して、人々にそれと感じさせない不可視の監視と管理のネットワークへと生成を遂げている。そこでの口実は「セキュリティ」です。「セキュリティ」という甘い餌と引き換えに人々は警察権力による監視と管理の対象となることを受け入れてしまう。そういうことの祖型はぜんぶ明治初年にあるわけです。
それから、情報の問題にしてもそうです。この本では福地桜痴の言説を切り口にしてアプローチしてみたのですが、福沢や兆民のような大才を欠いた、福地桜痴のような小器用なジャーナリストたちの実践が、今日これほどの発展を遂げた情報化社会の起源にあったということが、改めて確認できました。
――膨大な「表象」群を読み、考えることは、どのような体験でしたか?
松浦 もう、まさに発見に次ぐ発見で、読んでいくうちに「なるほど」という驚きと興奮をひっきりなしに味わうことができました。無謀な冒険に乗り出してしまったかなという後悔も初めのうち少々あったものの、知的なスリルと愉楽という大きな報酬を受け取ることができて満足しています。
でもこれ以上は、私にはちょっともう無理ですね。近頃とみに視力が落ちて、『言海』の文庫版を読んだりするのが辛くなってきた(笑)。人文系の学者というのは、勉強しても勉強しても果てしがないことは自明だから、まあ若いうちはせいぜい研鑽を積み、老いに差し掛かってから自分の研究成果の総合として大著を書くことにしようといった志を抱くわけです。しかし、大学をリタイアしてようやく暇ができた、さて、ではいよいよやるかと言っても、もう肉体的にけっこう難しくなってしまっている、自分を顧みてもわかるけれど。まあ、白川静さんのような化け物みたいな人もいるにはせよ……。とにかく私の場合、今や体力も気力も歳相応に衰えて、多くの本を同時並行的に参照しつつものを考えるということが厳しくなってきたのを感じています。この本は五十代のうちに書き上げておいて本当によかったと思っています。
──この本を完成され、還暦を迎えられたわけですが、今後のお仕事の展望は?
松浦 小説です。一九三〇年代の上海を舞台にした長篇小説を書きはじめています。それから、「自分の国の土」がどうしても必要といった種類の仕事をする気はもうないので、また外国に出かけてもいいかな、と。どこかの大学が呼んでくれれば、またフランス語なり英語なりで講義をしに行ってもいいのですが。あ、でもうちの犬が年老いてきているから、やっぱりちょっと難しいかなあ(笑)。
(まつうら・ひさき 作家・東京大学名誉教授)