書評・エッセイ

2014年7月号掲載

「ヒト」はいつから「ヒト」になるのか?

――仙川環『流転の細胞』

東えりか

対象書籍名:『流転の細胞』
対象著者:仙川環
対象書籍ISBN:978-4-10-126832-3

 ヒーラ細胞を知っているだろうか。ガンなどの研究に幅広く用いられている、最初に培養に成功したヒトの細胞株のことだ。1951年に子宮頸癌で亡くなった30代黒人女性の腫瘍病変から分離され株化された。ヒーラとはこの患者の名前、ヘンリエッタ・ラックスの頭のアルファベット二文字ずつを取ったもの。不死ともいわれる増殖力の強い特殊なこの細胞は、ヘンリエッタが死んだあと半世紀以上、実験に使われ続けている。ヒト細胞を使った治療法探索の第一歩である。
 最近話題の再生医学の中心も細胞である。「幹細胞」と称される一群の細胞は、人体の組織が欠損した場合にその機能を回復させる可能性を持っている。その手法としてクローン、臓器培養、多能性幹細胞(ES細胞、iPS細胞)の利用などがあげられる。注目を浴びたSTAP細胞もこの仲間だ。人工臓器の利用や臓器移植医療の限界が見えてきた今、この再生医学には大きな期待が寄せられている。
 本書はタイトルそのまま、この将来に明るい未来が開けている再生医学に対するアンチテーゼともいえる作品だ。治療技術の発展と、人の倫理観をどう擦りあわせていったらいいのか、大きな岐路が目の前に立ちはだかっている。
 大日本新聞北埼玉支局の記者、長谷部友美は、阿尾記念病院で行われる記者会見に参加していた。日本で2例目となる赤ちゃんポストを開設する病院側の説明を記事にするためである。六年前に九州の民間病院が「天使のゆりかご」というこの試みを始めた時には、賛否両論の大きな問題として取り上げられた。しかし二番煎じとすれば、それほど注目が集まるとは思えない。平和すぎるこの町で、刺激的話題が欲しい友美は、赤ちゃんポストを絡めた企画を提案する。まずは、このポストへ預けに来る第一号に取材しようと張り込みをはじめた。ようやく現れた赤ちゃんを抱いた女性、それは半年前に行きつけのバーを辞めた石葉宏子であった。
 石葉宏子を慕っていた友美は、彼女の行方を追ったが杳として知れない。そればかりか、結婚詐欺や不特定多数の男性との交友、あるいは強請のような犯罪に手を染めていた可能性まで浮き上がってきた。記者として、また友人として、女性として、石葉宏子に会わなければならない。友美の調査は、さらに深部に分け入っていく。
 彼女がかつて結婚していたこと、家族と離れ、遠く北埼玉市にやってきた理由、そして赤ちゃんポストに預けようとした子供のこと。小さな事実を組み合わせていくと、そこには最先端医療の現在と人の心の齟齬が浮かび上がってきた。
 医学に限らず、科学は失敗の連続で出来上がっている。それまでは経験値で推し測ってきた治療は、ヒトゲノムですら解析ができた今は、きちんとした理論が構築され、科学的に証明され成果となる。
 今まで治療不可能だった遺伝性の病気や、事故による四肢の損傷、あるいは老化防止など、理論的にはすでに回復が可能であることがわかっていても、その方法が倫理に反するものであった場合、当事者の気持ちは複雑である。現在でも代理母出産や着床前診断、腎がんなどの治療のため摘出した腎臓の病変部分を切除・修復したうえで、慢性腎不全患者に移植する修復腎移植など、技術的に可能であってもコンセンサスを得ることが難しい。
 一番恐ろしいのは人身売買だ。発展途上国の子供たちが誘拐され、臓器売買に使われていたというニュースも記憶に新しい。「ヒトは受精した後、どこからヒトと呼ぶのか」という命題は人工中絶が年間20万件近くある日本では昔から考えられてきた(厚生労働省の平成二十四年度衛生行政報告例)。胎児を月齢だけで区別していいのか。臍帯血移植による治療など受け入れやすいものはどんどん進歩している。ES細胞やiPS細胞による治療が本格的になることで、ヒトに直接由来する本書のような問題は解決されるかもしれない。残念ながら、今はまだ、大いなる悩みの中にいる。

 (あずま・えりか 書評家)

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