インタビュー

2014年8月号掲載

『非写真』刊行記念 インタビュー

小説の嘘、写真の不思議

高橋克彦

対象書籍名:『非写真』
対象著者:高橋克彦
対象書籍ISBN:978-4-10-144715-5

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写真・著者

――九編全て、写真とカメラにまつわる短編集になりました。

高橋 若い頃から写真好きだったけど、デジカメになってから仕事で使うようになったんですね。小説の取材に行って、看板などを記録用に撮影する。ちょうどデジカメが凄まじく進歩して、画素数なんかも飛躍的に増大した時期。それで写真熱が再燃した。もともと細密画が好きだったし、懐中時計やライターも集めていた。細かいものが好きなんです。

 ――今では所有しているカメラやレンズも多いとか。

高橋 小説の中では、家にカメラが五十台、レンズが二百本以上と書いたけど、実際にはもっとあるんじゃないかな。仕事部屋を見回しただけで、カメラが十七、八台あるから。

 ――この『非写真』では、カバーから本文に至るまで、使用されている写真も全部、高橋さんの作品です。

高橋 地元の風景とか、家の猫、卓上のライターなんかを撮っているだけなんだけどね。それでも写真は残してあるものだけで三万枚。削除したものも入れれば、百万枚は撮っていると思う。小説は平気で削除するのに、写真はつい残してしまうんだ。綺麗な女性の写真なんか、ちょっとした角度や表情の違いで、同じようなカットを五十枚も六十枚も残してしまう。小説はどんなに短くても、書くのに三日か四日はかかるでしょう。カメラは撮ってすぐに結果が見られる。そのリズム感の極端な違いが魅力です。

 ――仕事の合間の気分転換によさそうですね。

高橋 書いている時間より、カメラを弄っている時間のほうが遥かに長いけどね。この中で書いたマウントアダプターの話も、あるメーカーのレンズと、あるメーカーのマウントアダプターの組み合わせで、突然画面に染みが出ることを発見して、そこから発想したものです。カメラを替えても、その組み合わせだと必ず染みが出る。組み合わせを変えると出ない。それを確かめるために、ずいぶんマウントアダプターを買った。同じような経験をしている人もいるんじゃないかな。

 ――その「合掌点」という作品では、染みを拡大すると、ありえないものが写っていたという展開になりますが……。

高橋 そこは小説だけどね。セレナーのレンズから話が始まる「遠野九相図」も、写真好きだった叔父がセレナーを何本も所有していたのは事実。もちろん行方不明になったりはしていないのだけれど。「モノクローム」で書いた、カラーの画像をモノクローム設定のカメラで撮影してみると、それまで見えなかったものが見えてくるというのも、実際に自分でやってみたことです。

 ――この世ならぬ存在が写し出される恐怖と、失われたものへの愛惜が、全体に通底しているように感じます。

高橋 写真には、意識しないことを写し出す機能もあるから。単に観光地の橋の写真を撮ったつもりでいたのに、あとで見ると、橋の下で高校生のカップルがキスしているところが写っていたり。撮影した時は全く意識していなかったのに、カメラは目に写らないことも残してしまう。小説はもちろん、映画や絵画でも、そんなことはありえないでしょう。

 ――この『非写真』には背筋が凍るような作品が多く収められていますが、写真も、ある意味、怖いものですね。

高橋 小説はテーマありき。小説を書くとなると、まずテーマから考えます。写真はテーマを考えない。道端に咲く花、野良猫、見かけたものを撮る。九割九分、遭遇したものを撮ると思う。写真という表現は、テーマがなくてもありうるのか。そこに違和感を覚えてきた。普通の人は気にしてもいないと思うけど、小説を仕事にしている身からすると、段々と写真と小説は対極にあると考えるようになってきた。

 ――その対極にある二つが、この本ではワンフレームに。

高橋 小説は嘘をつきながら現実に近づいていく。写真は現実を撮りながら、現実と違う表現を目指していく。たとえば、ボケの問題。背景をうまくボケさせて、被写体を際立たせていくのだろうけど、それは現実に見えている光景とは違う。写真は、自分にはわけのわからないことが多すぎる。だから写真って一体何なのか、一緒に考えてみない? というカメラ好きの人への問いかけの本です。あるいは、写真と小説がものすごく異質なものだということに気がついたという本かもしれない。

 (たかはし・かつひこ 作家)

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