インタビュー
2014年9月号掲載
『低地』刊行記念特集
構想16年、待望の新作長篇
聞き手・クレシダ・ライション 翻訳協力・小川高義
対象書籍名:『低地』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジュンパ・ラヒリ著/小川高義訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590110-3
ジュンパ・ラヒリの新作長篇『低地』は、インドのカルカッタで育った二人の兄弟、スバシュとウダヤンの親密な少年時代の描写から始まる。片時も離れなかった二人が、二十代の若者となり、人生の道を画然と分かつことになる。子どもの頃から度胸のいい弟のウダヤンは、過激な共産主義革命運動に身を投じ、学究肌の兄スバシュは渡米して、ロードアイランドの大学院で研究生活に入る。
やがて弟が、暴力闘争の果て両親と身重の妻の眼前で殺されると、兄は、若い寡婦となった妻をアメリカに連れ出し、ともに生きようとする。弟ウダヤンの死によって、遺された者たち――兄スバシュ、妻ガウリ、父亡きあと誕生した娘ベラ、そして兄弟の両親――の人生はどのように変わり、続いてゆくのか。
故郷を書く
――『低地』はコルカタとニューイングランドを行き来して語られます。ニューイングランドのなかでもロードアイランドと言えば、まさにご自身が育った土地ですね。
ラヒリ 以前から、いわば偽装したようなかたちでは、ロードアイランドのことを書いてきました。明らかにマサチューセッツとわかるように設定してみた作品もあります。もちろんマサチューセッツにも住んだことはありますけどね。でもこれまでは、今度のようにロードアイランドと特定できる作品はなかったはずです。どうしてなのかよくわかりませんが、育った場所そのままでは書きにくかったのかもしれません。
たとえば『その名にちなんで』はボストン郊外という設定ですし、『停電の夜に』という最初の本には、頭の中でロードアイランドを思い描きながら、そうとは明かしていない短篇もあります。こうなると場所の設定なんて、コネティカットでも、マサチューセッツでも、ロードアイランドでも、どこでもいいということになってしまいますね。でも今度の長篇では、はっきりとロードアイランドについて書きたかった。これは初めてのことです。
何年か前、『ステート・バイ・ステート』という本に一文を寄せました。これはショーン・ウィルシー、マット・ウェイランドの共編で、各州ごとに一人の作家が、その州と自身との関わりを書いたものです。ちょうど『低地』の執筆にかかろうとしていた時期で、このエッセーを書くことによって、自分がロードアイランドで育ったという人生の事実に初めて真正面から向き合って――じつはいまでも完全に馴染めたのかどうかわからない土地ですが――これなら大丈夫、今度の本はロードアイランドを書こう、と思ったのです。それでやっと解放されたというか、ロードアイランドについて、じっくり考える、書く、思い出す、ということができました。
――実際の風景、とくに海岸線がスバシュにとっては大事ですね。スバシュの視点を意識しながらロードアイランドを見直す、考え直す、というようなことはありましたか。
ラヒリ ええ、スバシュが研究生活を送る設定にしたキャンパスまで、彼になったつもりで車を走らせたり、小さな浜辺を歩いたり、彼が見るであろうものを見ようとしました。何度もロードアイランドへ足を運んで、彼が毎日どういう暮らしをしていたのか考えたことも、人物造形をかためていくうえでは大事でした。その海岸の近くに小さな教会があるのですが、ああ、これはいい、これを彼が見ることにしよう、なんて思ったりもしました。
現代史を書く
――ウダヤンは、一九六〇年代のカルカッタで、ナクサライト(インドの過激な共産主義革命運動)と深い関わりを持ちます。そういう時代背景を描くのに、文献を調べたり、当時を知る人に話を聞いたりなさったと思いますが、まず書いて、あとから細部を詰めたのか、それともあらかじめ歴史をのみこんでしまおうと考えたのか。どちらでしょう。
ラヒリ のみこんで、しっかり消化してから書くつもりでした。ところがうまくいかなくて、だいぶ長いこと苛々していました。借り出した本が二冊あって――父が勤めている図書館から借りたのですが、結局、七年も借りたままになってしまって。ときどき読み返しては、メモをとって、しまい込んで、また読み直してメモをとってという繰り返しでした。何年こんなことを続けるんだろうと不安でした。
四分の三くらいまで書き進んだころ、コルカタへ行きました。それまでにも、当時のインドを知っている両親の知り合いに、「どんな時代でしたか、何があったんですか」というようなことを聞こうとしていたのですが、コルカタで現地の人に詳しく話を聞くうちに、かちりと鍵が開いたような気がしました。それまでとっていたメモと符合したというか。
そしてやがて、あるときとつぜん、もう調査や資料といったものを松葉杖にしなくても書けると思えたのです。その段階になると、登場人物のイメージがはっきりして、行動の動機もだいたい固まっていましたから、こういう感じの人がこういう世界に暮らしている、このまま掘り下げていけばいい、と吹っ切れました。第一段階は調べることばかりで先が見えませんでしたが、そのうちに調べた歴史が少しずつ見えてきて、しっかり見えてくるほどに、もう見なくてもよくなった、ということですね。
三角関係を書く
――『低地』は、いままでの作品とは文体が変わったと感じるところもあります。短く切り詰めたようなセンテンスがあって、断片的な構文を多用しているとも思えますが、それだけに緊迫感のある語り口ですね。
ラヒリ 少し変えてみようとは思っていました。ストーリー、題材、状況、時代背景、どれもこれも重たいので、文章まで重くするのがいやで、言うべきことはできるだけ簡素にというつもりでした。いくらか軽みがあってもいいのかなと。ですから、いつもよりもっと削ったかもしれません。草稿の段階ではもっと重かったんです。情報量が多すぎて、歴史にこだわりすぎて、思い入れたっぷりで、これは軽くしてやらなければと思ったんです。
――アメリカ議会図書館の分類によると、『低地』は「兄弟」「ナクサライト運動」とならんで「三角形(人間関係として)」という下位区分にも該当することになっています。三角関係と言うなら、もちろん、兄のスバシュと、弟のウダヤン――ウダヤン本人よりはその記憶――それから寡婦となるガウリ、という三人ですね。そういう関係はほかにも、スバシュ、ガウリ、娘のベラ、といった形で見られます。三角関係というのは、作家にとって何か意味があるのでしょうか。
ラヒリ ずいぶん前になりますが、ボストン大学で創作を学んでいたとき、物語をつくるうえで便利だと教わったんです。三角は坐りがいいけれども、四角のような安定はない。だからドラマを作りやすい。私は三角の連続を意識して書いているので、作品のいたるところに出てきます。いろいろな行き方がありますが、私は小説というのはとりわけ、家族とは何なのかを考えるものではないかと思っています。何人でも家族になりえますが、少なくとも三人はいないと二世代におよぶ家族は書けません。
半開きのドア
――ニューヨーカーの小説特集号に、『低地』の一部が先行して掲載されました。掲載されたのは、ウダヤンの子を宿したガウリに、兄のスバシュが、一緒にロードアイランドへ行ってはどうかと誘うところまでです。その後のアメリカでは、どういう展開もありえた。二人がそれなりに幸福に暮らすという展開も一つの可能性ですが、複雑な現実にぶつかっていくことは初めから想定されていたのですか。
ラヒリ ええ、そうです。緊急避難のように工作した解決法が、ある意味では間違っていたけれど、それでいて間違いでなかったともわかる、ということを考えていました。必要だと思えたことが、必ずしも解決にならなかった。人生そんなものではないでしょうか。何かをするとして、それがベストではないけれど、そのときは仕方ないというような。そういう方向性でしたから、二人のハッピーエンドはまったく考えていなかった。ものすごく複雑な、困った展開になるのだということ以外は何もありませんでしたけれど。
――ロードアイランドへ行ってからの結婚生活については、あらかじめ計算なさっていたのですか。
ラヒリ お腹の子が生まれることは予定どおりでしたが、夫婦がどうなるかまではあまり決めていませんでしたね。ガウリとスバシュは子供に対する情緒という点でくっきり分かれますが、そのあたりを考えあぐねて時間がかかってしまいました。誰が何をどう思うかというようなことで。ガウリが子供につよく愛着を感じるという可能性もあったと思います。いまなお愛する亡夫の子なのだから、子どもが生きがいになって、スバシュが脇に追いやられるとか。そういう成り行きもあったかもしれない。でも実際に子どもが生まれてからの二人を追いかけて書いていたら、やはり違う方向へ進んでいました。
――ウダヤンの死をもっとも重く受けとめるのがガウリですね。かけがえのない人を失って、子どもが生まれても、代わりにはならない。仕事を持つようになるとある程度は埋め合わせられますが、いささか不毛なやり方でしょう。ガウリはもっとも悲劇的な軌跡をたどりますが、それでいて最後には彼女にもちらりと希望の光が差している。
ラヒリ もっとエンディングを暗くしたらどうかとも思ったのですが、でも、やっぱり違うかなと。これは作家の都合みたいなものですけれど、娘のベラを書いていると、その人物像に私の気持ちが入っていって、もっと彼女のことを考えてあげたくなったんです。実の父親が革命の過激派で、殺されたことも知らずに、秘密やら嘘やらに生かされて、この上さらに母親が自殺するとか、一生ついてまわる重みを背負わせて終わったら、いくら何でもひどすぎやしないか。ここはベラを守ってやりたいと思いました。それにガウリ自身だって充分ひどい目に遭ってますからね。
ですから、ちゃんと解決してやらないまでも、ひょっとしたらどうにかなりそうな、半分開いたドアのように終わることにしたんです。
“Unknown Territory” by Cressida Leyshon
Taken from The New Yorker, 18 Oct, 2013.
Copyright © 2013 Condé Nast
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