対談・鼎談
2014年9月号掲載
石井光太『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』刊行記念対談
歴史に空いた穴を
半藤一利 × 石井光太
終戦後の浮浪児はどこに“消えた”のか? 「昭和史」を考え抜いていらした半藤さんに、戦争を知らない世代、石井光太さんがぶつけた質問とは。
対象書籍名:『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』
対象著者:石井光太
対象書籍ISBN:978-4-10-132537-8
石井 半藤さんは昭和五年生まれですよね。終戦時には十五歳でしょうか。
半藤 そうです。野坂昭如さんに渡部昇一さんに、クリント・イーストウッドと昭和五年はしぶといのが多いんです。
石井 おかげでお会いできました(笑)。今日は、当時のお話や、浮浪児がその後どう語られていたか、語られていないかについてうかがえればと思っています。
半藤 確かに私は、戦争を体験していますからね。三つ年上の吉村昭さんと東京大空襲の体験について対談したことがあります。今日の話につながりますが、彼の方がずいぶんと大人でした。あの時代のひとつ二つの歳の違いは大きい。
石井 どう違うのでしょうか?
半藤 年齢によって、おかれた境遇がまったく違ったんです。
流れを追うと、昭和十八年六月二十五日には「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定し、十九年七月から、中学生以上の「一年間常時動員」が始まります。同年六月三十日には「学童疎開促進要綱」が出され、東京都と大阪市などの国民学校の児童三年生から六年生まで、縁故疎開ができないものが皆、集団で疎開することになった。続けて八月二十三日には、「学徒勤労令」や「女子挺身勤労令」が公布・実施されました。そして数え年で十五歳の当時の私は、のちの国民義勇兵役法によっていざというときに戦うため、東京から動けませんでした。疎開世代にあらず戦闘員世代。
石井 ご著作の『15歳の東京大空襲』(ちくまプリマー新書)を読みましたが、工場で働くご様子が書かれていますね。
半藤 学校に行かずに軍需工場で働いていました。中学三年の私のひとつ下の昭和六年生まれを「疎開組」なんてからかってましたけど、疎開組と動員組とは、僅かな年齢差で体験がまるで違っていくんです。
私には五つ、三つ、一つ、と、下に弟妹が三人いましたが、就学前だったので母親と一緒に実家の茨城に疎開しており、私は親父と女中さんと三人で空襲下の東京に残っていました。幸いにというか、自分の身だけなんとかすればいいという境遇で、後顧の憂いのない状態です。
石井 空襲でバラバラになったらどこに集まるとか、家族で約束をしていたものですか?
半藤 していません。アメリカの総司令官が替わって、カーチス・E・ルメイが指揮を執った初めての大規模低空夜間空襲が三月十日の東京大空襲なんです。それまでは、高々度からの昼間の軍需工場爆撃が多かった。二度ほど勤労動員の自分の工場が爆撃されましたが、一般市民を無差別にじゅうたん爆撃するなんて思っていなかったんです。
石井 空襲に対してはなにか対処法が決められていたんですか?
半藤 焼夷弾は消せるから、落ちてきたら消せと言われていました。バラバラになった家族が多いのは、女性は早めに子供を連れて逃げる一方で、大人、十五歳以上の男は消火活動をしているからなんです。三月十日の東京大空襲で十万人という膨大な数の死者が出たのは、そのせいもあるんですよ。あの経験で「とにかく逃げろ」となったから、その後の五月の空襲では、そこまで被害は出ませんでした。ただ、関東大震災を経験している人は火が風を呼び風が火を呼ぶ、消している時間はないということを知っていましたね。親父は「余計なことをしないで逃げろ」と前から言っていました。
石井 三月十日は……。
半藤 気付くと、向島から見て深川や浅草など周囲は火の海でした。東京湾から来た二機ほどのB29のエンジンの周りが油で汚なかったのを覚えています。
石井 そこまで見えるものなのですか。
半藤 低空飛行なのではっきりと見えました。一万メートル上空を編隊で飛んでいるときはきらきらと綺麗でしたが、目の前に来ると汚かった。で、通り過ぎたなと思った瞬間にまさに頭上で破裂し、親父とふたりで防空壕の上から転げ落ちたら、凄まじい音がして周りでパンパンパンと焼夷弾が炸裂していた。あっという間に二軒先の油屋さんが燃え上がって、でも消せると思っていたんだからバカですよね。親父はそのときにさっさと逃げていました。親も子もない(笑)。
石井 その後はどうしたんですか?
半藤 火と煙に追われて逃げた後、川の中に落っこったりなんかして、焼け跡のうちへ帰ってきたのが翌朝の九時半か十時ごろ。ですから、おやじは死んだと思っていて「おまえ、生きていたのか」なんて、諦めていたらしい(笑)。
石井 ああいう状況だと、死んだというのが前提になってしまうのでしょうね。
半藤 早い話が、自分は何とか生き残れた。それだけです。焼死体がやたらに転っていた。戦争がとんでもないと思うのはそこなんです。本当に非人間的になります。死体があっても無関心に、冷たい体をたき火で干してました。
その時代の同級生で戦災孤児になったのが三人いるんです。ひとりは向島工業学校の三年生だったのですが、空襲時には工場に行って防護せよと命令されており、空襲警報が鳴る中を出かけた。その間に一家は全滅していて、本人だけは帰宅するまで知らない。
ただ、彼らは戦災孤児にはなっても、浮浪児にはなっていません。十五歳ともなると、生きる才覚が多少はある。
石井 親戚を探せるでしょうし、仕事をすることもできますし。
半藤 そう、とりあえず浮浪児にはならない。だから、浮浪児について気の毒だと思うのは、子供が疎開で遠くにいる間に親兄弟がぜんぶ死んじゃったという場合ですね。三月十日の時は、疎開先から卒業式のために帰ってきて死んでしまった六年生の子供もいた。
本にありましたが、十から十三ぐらいの子供たちというのは、一番困る年齢ですよね。働くにはちょっと子供過ぎるし、といって子供でいるためにはお兄ちゃんなんですよね。
石井 親戚は、自分の食い扶持を減らしてまで彼らを助けなくてもいいだろうと思う。では一人で働けるかというとなかなか難しいし、雇ってもくれない。
半藤 たくさん取材なさっていますけれど、浮浪児には疎開児童が多いですか?
石井 疎開中に東京の家族が全滅した人が半分ほどですね。あとは卒業式のために東京に帰った直後に空襲にあった子とか、六歳とか七歳ぐらいで親と死に別れて浮浪児になった人が多いです。
ほかに多かったのが、記憶がない方です。つまり浮浪児になる前の記憶は一切消えてしまっているので、自分が空襲に遭ったのか、それとも疎開児童なのかというのさえわからない。そういう人たちは「知らない、記憶にない」とおっしゃるので、取材にならない場合も多かったです。ただ、「記憶にない」というのはすごく重いことだなと思いました。
半藤 自分で消し去ったんですかね。
終戦を迎えた長岡から東京に帰ってきたのが、昔の高等学校を受けるための昭和二十二年なんです。そのときに、上野駅で浮浪児をたくさん見ましたよ。でも、詳しくはあまり記憶にない。ただ、二十二年には確かにたくさんいましたが、入学する頃の二十三年には、もうほとんどいなかったような気がします。
石井 その頃からじょじょに減ったみたいです。浮浪児の存在というのは、当時、ニュースにはなっていたのですか?
半藤 いや、なっていなかったと思います。靴磨きの姿は上野で見ましたけれども、浮浪児なのか親がいて稼いでいるのか、よくわからない。あのころはみんな何でもやっていましたからね。
こう言っちゃ悪いですけれども、あのころの子供は今の子供と違って、たくましかったですからね。私は終戦のときは中学三年生ですけれども、相当大人でした。何でもやった。
石井 何が違うのでしょうか。
半藤 あした自分の身はどうなるかわからない時代ですから。とにかく一人で生きなきゃいけないという意識があった。
石井 覚悟があったのでしょうね。
半藤 そうですね。石井さんは、なぜこの取材をおやりになったのですか?
石井 海外のストリートチルドレンのことをずっと追っていたのですが、アジアが発展してきた二〇〇〇年ぐらいを境にして、どこの都市にもいた子供たちが一気に“消えて”いきました。一年後には同じ場所にもう誰もいない。何でこんなことが起きるのだろう、日本でも同じなのか。街は子供たちをどうしたのか。その疑問がスタートでした。
もう一つは、浮浪児と傷痍軍人の話だけは資料が戦後もろくに出ていないんです。だから、それを掘り下げてみると何か意味があるのではないかと思いました。
半藤 そう、誰も目をつけなかったね。
石井 何でですかね。
半藤 戦争のいちばん悲惨な犠牲者は女の人と子供たちなんです。が、パンパンや戦争未亡人、それからGIの奥さんになって向こうに行った人たちも含めて女の人たちのことは調べる人は多かったけれど、子供はまともに触れられていない。
石井 本当は生き残っているからやりやすいはずじゃないですか。なのに、何でそこのところだけすっぽり歴史の穴が空いているのかなとずっと考えていました。勝手な想像ですけれども、書く側の人たちや当時生きていた人たちが、後ろめたく感じていたからなのではないかと思うんです。海外でも、その国の普通の市民は、通りの子供に目を向けません。彼らは悪いやつらと組んで儲けているから、別に助ける必要はないよと言う。それぞれ目の前の個人は全部違うし、調べればわかるのに、全部固定観念で完結させてしまう。戦後の日本人の中にも、同じ側面があったのかもしれませんよね。
半藤 戦後日本は、子供たちが最大の犠牲者であったことを真剣に考えてきたのか。歴史の穴はまだまだありますね。
(はんどう・かずとし 作家)
(いしい・こうた 作家)