書評
2014年9月号掲載
文学にまで昇華された日本考古学史
――上原善広『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』
対象書籍名:『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』
対象著者:上原善広
対象書籍ISBN:978-4-10-120686-8
二〇〇〇(平成十二)年、日本中を驚かせた毎日新聞の大スクープ、あの旧石器捏造事件にまで至る、日本の考古学史を追ったノンフィクションである。
題材を聞いたとき、私は嫌な気がした。あの事件に関わって人生を棒にふった人たちの傷口に塩を塗るような内容を予想したからである。歴史的事件で大失態をおかした人物を追ったノンフィクションは、そのほとんどがスキャンダリズムに堕し、苦しむ人たちを詮索し、ぎりぎりまで追い詰められている人びとをさらに鞭打つ内容のものばかりである。
しかし読みはじめてすぐにその心配は杞憂だとわかった。
あの上原善広である。弱者の側に立ち、ともに涙を流し、血を流しながら書き続けてきた上原である。
上原善広はこのアカデミズム史上類のない大事件を、藤村新一だけの問題にはしなかった。“主役”である藤村は序章で触れられたあと二百ページほどまったく登場せず、最後の最後、最終章近くになってやっと出てくるのだ。ピンポイントで解説しようとせず、来歴を遡って、日本の考古学界の源流、つまり藤村新一の師匠たちの人生から物語を紡ぎだす。この書は事実を書き起こしたただの事件物ノンフィクションではない。日本考古学界の流れとあの事件への流れを、第二次大戦による国民の貧困を挟んで描く歴史書であり、一方で人間が自らでは御しきれない運命の悲喜劇を描き、生そのものを私たちに提示する。
日本の戦後考古学は、明治大学からの大きな流れを源流のひとつとする。その明大考古学教室で本格的勉強を始めたばかりの芹沢長介のもとに石器が持ち込まれたのは一九四九(昭和二十四)年のことだ。物語はここから始まる。石器を持ち込んだその人こそ、在野の天才考古学者、若き日の相澤忠洋であった。
芹沢長介――後に“旧石器の神様”とよばれるようになる伝説的な考古学者だ。だが、このとき二十九歳だった芹沢は明大の一学生でしかなかった。幼少の頃から考古学を志して活動していたが重い肺結核で入退院を繰り返していたため、明大に入学したのは二十七歳、苦労人であった。在野で考古学を実践する相澤忠洋もまた戦前の尋常小学校夜間部を出ただけの苦労人だった。この出会いが岩宿遺跡発掘というそれまでは否定し続けられていた旧石器時代の存在を証明する歴史的な発掘に繋がった。
しかしこの遺跡発掘は芹沢の師匠である明大考古学教室教授の杉原荘介の手柄となる。芹沢長介はこの師匠と反目、後に明大講師となったが研究室を追い出され、東北大学に職を得てそこを拠点に師匠と張り合い、確執が大きくなっていく。
藤村新一は、東北大学の芹沢長介教授に見いだされて力を発揮していき、芹沢教授を慕するあまり、そしてかつて芹沢に見いだされた“先輩”である相澤忠洋の在野の栄光に自らの将来を重ね憧れ、いつのまにか発掘捏造に手を染めてしまうのである。
この明大の杉原荘介教授VS東北大の芹沢長介教授の確執の流れを描きながら、関わった多くの人たちを横糸に、二〇〇〇年の旧石器捏造事件への伏線が描かれていく。ときに「こんなことまで触れる必要があるのだろうか」と思えるほどに。杉原教授と芹沢教授の軋轢に翻弄される人たちのこと。相澤の最初の妻とのことや二人目の妻とのこと。微に入り細に入り描いていく。著者にとってこれらのエピソードは「こんなこと」という些末な枝葉ではないのだ。あの事件を語るに、どうしても書く必要があった。
結果、この作品は複層的に深みを増し、ただの事件物ノンフィクションの域を超え、文学にまで昇華された。
過去を辿り、そのときどきに堆積した細かな事実を積み重ねて立証していくノンフィクションの執筆作業は、深い地層を掘って長いあいだ眠っていた石器や土器を並べて年表を作り、過去を検証していく考古学に似ている。
この書は失敗者を描くが、斃れた彼の顔を靴底で踏みつけたりはしない。通底して流れるのは、ほんとうに彼が悪いのか、彼だけがわるいのかという著者の人間愛に満ちた眼差しである。上原善広は、人間を描ききる作業は書き手の眼差しによって救済文学にもなりスキャンダルにもなることを証明した。事件を起こした藤村だけではなく、この書に登場するあらゆる人びとに差し伸べられた上原の手はとことん人間的だ。読者は上原のその掌の温かみを頬に受けながら本書を読み終え、上原文学の新たな到達点に魂を揺すぶられるのである。
(ますだ・としなり 作家)