書評
2015年5月号掲載
まだ先を見ている
――大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』
対象書籍名:『文学の淵を渡る』
対象著者:大江健三郎/古井由吉
対象書籍ISBN:978-4-10-112624-1
大江健三郎と古井由吉。対談におけるふたりの役割は、かなりはっきりしていて、大きくぶれることがない。互いの発言の、枝葉ではなく幹の部分にすっと手をのばし、その感触を確かめたうえで、次の言葉を差し出す。ここで展開されているのは、いわば連歌の呼吸である。古井さんが投げ出す少し固い言葉の結び目を、大江さんが解きほぐす。それが基本形だ。
古井さんの発言はけっして同意を求めるものではないのだが、異を唱えるという概念そのものを崩させたうえで、返答の方向性をうまく規定し、しかも規定することで場を窮屈にするどころか、互いがそこから解き放たれるように作用する。他方、大江さんはそれをよく理解したうえで、問いかけや差し出された言葉の結び目を丁寧かつ律儀に解きながら、高度な「説明」を加えていく。それは相手に対する解説というより、いま投げかけられた言葉になぜそのような反応をしているのか、それを自分にわからせるためのものだ。むろん、大江さんはそれを意識的に演じている。自分に対する「説明」が同時に相手の言葉の結び目をほぐしうることを、承知のうえでの振る舞いなのだ。
二十三年間で五回の対話。それが編年で並んでいる。最も古いのが「明快にして難解な言葉」(一九九三)。大江さんは『燃え上がる緑の木』三部作に取り組んでいる時期、古井さんは『楽天記』を書き上げたばかりの頃にあたる。ともに五十代なかばだ。ふたりの仕事がその後どう展開していくかを私たちはすでに知っているだけに、初回の対話で交わされている付け合いの密度、双方の仕事に対する信頼の深さ、そして進むべき方向性の正確な把握力に驚かされる。
かつて内向の世代というレッテルを貼られ、「難解」だと批判された古井さんは、「自分が抱え込んだものの中から、できる限り明快に、律義なぐらいに書いているつもり」だったのに、そのように見なされたのが「不本意」だったとまっすぐに語る。「言語を解体させて、しかも新しい生命を吹き込む」大きな試みとしての『楽天記』を終えたあとだからこそ漏れ出てきた台詞だろう。発句の結び目はゆるやかだが、大江さんはさっそく、「古井さんの作品は明快で難解だ」と解いてみせる。明快な言葉は「その人自身の形を持っている」から難解になる。逆に「難解でないもの」は「説明的」であって、明快な言葉の対極にあるのが説明的な言葉である、と。古井さんはそれを「説明というものも一つの創造に近いものではないか」と展開させ、「説明」を外に届かせるにはある種の聖性が必要であり、「個別を超えようという運動の感触」が求められると述べる。自身の文学を語りながら、対話者の仕事の特質をみごとに照射する返しだ。
雑誌「新潮」に掲載された過去百年の短篇小説をたどりながら厳しい指南の言葉を展開し、詩を扱っては一度死に瀕しなければ言葉は成り立たないという極北の立場を表明したのち、カオスの直前に救いがあるとして翻訳と創作の関係に触れる。末尾に収められた二〇一五年の対話で、ひとつの歌仙が形をなす。古井さんが五十代で口にしていた、一人称の「私」の多くの部分が死者であるとの見解は、「僕の分担は『劇』が始まる前までだと思ってるんですよ」というひとことを介して、『鐘の渡り』に結実した。大江さんの、「ある純粋なプロセスが僕たちにとって一つの大きい認識そのもの、啓示そのものであるような表現」が達成できないからこそ小説を書くのだという姿勢は、「声を人に求める」方法をさらに進化させ、女性たちの声を聴く『晩年様式集』を推し進める原動力になった。
ふたりの精神の紐は一度も切れていない。言葉はつねに明快で、難解さはどこにもない。しかし彼らはまだ先を見ている。手にした言葉を壊し、あたらしい基礎工事をはじめようとしている。崩壊寸前でしか出会えない明るみを掴もうとしている彼らの仕事を、あとから来る者が安易に追いかけたら、おそらく言葉じたいを失うだろう。ちがう結び目を、ちがう解き方を自分で探せとふたりは言っているのだ。そんな恐ろしさを前提とした愉悦が、ここにはある。
(ほりえ・としゆき 作家)