書評
2015年6月号掲載
闇、黒、光。
――舞城王太郎『淵の王』
対象書籍名:『淵の王』
対象著者:舞城王太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-118638-2
あいかわらず、猛スピードでさいしょからさいごまで読めてしまった。登場人物もみんな、いちいち最高にダサくてカッコ悪くて、脆い。脆すぎる。そして可愛らしい、そしてそして最後はなんでそこまでそんなに闘うの、ってくらいドロドロにカッコ良い。全員が、ずっと必死に生きながら、転んでも転んでも、走っている。交尾して、傷つけられて、たまにズルいことして、騙して、騙されて、でも必死に、けっきょく誰とも打ち解け合うことはなく、ひとりぼっちのまま、それでも走りつづける。走った果てには、かならずはっきりと浮かび上がる、今、ここ。あいかわらず、猛スピードでさいしょからさいごまで、嫉妬しながら読んでしまった。だがしかし、この『淵の王』。これまでの作品群にはなかった、ぐにゅりとした感覚があったから、「このかんじ」について、書いておこうとおもう。
『ガンツ』を初めて読むときの描写にハッとした。それは単純にぼくの『ガンツ』初体験のときに描写自体が似ていたのもある。ぼくは85年生まれの、今年30歳。ぼくが初めて『ガンツ』を手にしたのは、たしか高校生のころだった。数学の時間に友だちから回ってきたのが、『ガンツ』だった。大仏とかと戦闘していたあたりだったのを憶えている。机のしたに隠しながらパラパラめくって、暴力だのエロをまず把握してから、それからさいしょにもどって細かく読んでいく。なんか胸の大きな女性が多くて、そんな女性たちが戦闘しているだけで、妙な高揚感があって、そんなことで高揚している自分が気持ち悪くもあったけれど、でもそのころはまだ、そんなことで高揚するくらいの、まあ、そういう年頃だったのだろう。そのへんの描写が単純に、わかるわかる、似てる似てる、とおもったのと、それともうひとつ。
『ガンツ』における「黒い玉」の存在だ。この「黒い玉」は、『淵の王』における、ヒト型の闇だったり、屋根裏部屋、穴、真っ暗坊主につながるのではないか、とぼくは勝手ながらおもった。そしてこの、黒とか、闇とかのイメージの濃度みたいなものが、これまでの作品群にはなかった、ぐにゅりとした感覚、なのかもしれない。『ガンツ』の中心に据えられて、そして戦闘をしなくてはいけない運命に登場人物たちを陥れる元凶の「黒い玉」とは、じゃあなんなのか。『淵の王』で堀江果歩は『ガンツ』を読んでいる。37巻までつづいた『ガンツ』は最終回を迎えて、さいごのほうでは「黒い玉」は、なんていうか宇宙レベルでヤバいことになっている。っていうか、さいしょからさいごまでの流れのなかで「黒い玉」とはなんなのか、の定義は正直もうブレっブレで、だけれどそれも含めて、ひとつのエンターテイメントに仕上がっている、というか仕上げた!ってかんじの『ガンツ』はすげーな、とぼくは最終回をリアルタイムでヤンジャンで読んでいたのだけれど、その様子を目の当たりにして少し泣いたくらいだった。それで、堀江果歩は『ガンツ』を読んでいる。「黒い玉」とはなんなのか、ある意味で世界に絶望のようなものをもたらすものではあったが、その目的のようなものはけっきょくのところさいごまではっきりはわからなかった。いや、わかる必要がなかったのかもしれない。『淵の王』での闇とか、黒とかのイメージ。これもまったく、はっきりはわからない。わからなかった。でもわかる必要があるのだろうか。登場人物を見つめる「私」の存在も、じゃあなんなのか。
中島さおりが小学三年生の頃の描写にぼくはたまらなく打たれるわけだ。
夕方の光と闇の間に捕まってしまった。
この部分にぼくは真新しさをかんじるのかもしれない。闇のなかで、彼女の視覚はやけに光を求めている。あの時間が永久に記憶の奥深くに貼りついて離れないみたいにして、突然、事細かに描写される。
闇とは、黒とは、そのもの自体のことで、ものすごく漠然としたものかもしれないけれど。『淵の王』で登場人物たちは、闇雲に光を見出そうとしている。それをかんじた。
(ふじた たかひろ 演劇作家・マームとジプシー主宰)