書評
2015年8月号掲載
暗闇を抉る“エグミス”の真骨頂
――前川裕『イン・ザ・ダーク』
対象書籍名:『イン・ザ・ダーク』
対象著者:前川裕
対象書籍ISBN:978-4-10-101462-3
よし、読むぞ。――と、私には本を開く前に、がっつりと気合を入れる作家が何人かいる。そのひとりが前川裕だ。理由は明白。第十五回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞したデビュー作『クリーピー』から一貫している、人間や社会のダーク・サイドを深く掘り下げる作風が、それと向き合う覚悟を、読み手に要求するからだ。もちろん最新刊となる本書でも、この世界のえげつない部分が、容赦なく突きつけられている。だから今回も、気合を入れて取り掛かったのである。そしてそれは、大正解であった。
半年近くの間に三件も起きた、連続デリヘル嬢殺人事件。犯人が長く殺人現場に残っていたことから、硬直性愛という性倒錯者ではないかという意見が出てきた。それを調べるために、浅草警察署生活安全課の主任・法然隆三と、その部下の安中も、調査班に組み込まれた。だが、新たなデリヘル嬢殺しが起こり、警視庁捜査一課の高鍋が、暴走気味の囮捜査を仕掛ける。法然の部下の晦美羽を囮にして強行した捜査は、しかし失敗。それどころか囮捜査を利用され、さらに新たなデリヘル嬢殺しを許してしまった。窮地に立つ警察。そこに、金沢で殺された大友雪江という女性の件で、石川県警捜査一課の田所が上京してきたことから、事態は大きく動き出す。田所との縁から雪江のことを気にかける法然。やがて彼女が、大手ゲームメーカーの課長でありながら、安価で売春をしていた事実をつかむ。さらに、雪江とデリヘル嬢殺しが結びつき、葉山事件と呼ばれる過去の殺人まで浮上。とめどなく広がっていく事件を、法然たちは追っていく。
粘着質な文体で強烈なサスペンス小説を書いていた作者は、第三長篇『酷 ハーシュ』で警察小説に挑戦。従来のサスペンスはそのままに、新たな創作領域を切り拓いていった。本書は、その流れに連なるものといえよう。そして、前川作品をどれから読もうかと考えている人に、薦めたい内容になっているのだ。なぜなら前川作品に通底する、どろりとした悪意や恐怖を、警察小説という枠組みが緩和し、エンターテインメント性を高めているからだ。
作者の第二長篇『アトロシティー』の文庫解説は、私が担当しているのだが、そこで「えぐい内容で、現代人のドス暗い部分を抉るミステリー。略して“エグミス”。これが前川作品の本質だ」と書いた。この意見は、本書でも変わっていない。
昼は堅い会社や有名大学に通いながら、デリヘルをしている女性たち。まるで自分を罰するように堕ちていき、ついには殺された大友雪江。そしてラストで立ち上がってくる犯人の狂気……。次々と現れる現実は、どれも重く苦々しい。でも、これを警察の視点で語っているので、ある種の相対化が為され、無理なく作品世界に入っていけるのである。
とはいえ警察官も、完璧なヒーローではない。イケメンの安中と会うと華やぐ自分の若い妻を見る法然の心からも、暗い思いが流れ出す。その揺らぎが、主人公のキャラクターの陰翳を深めると同時に、誰もが持つ人間の危うさを、巧みに表現しているのだ。猟奇殺人も性倒錯も、けして特別なことではない。普通に生きていても、ダーク・サイドに堕ちることもあれば、巻き込まれることもある。こうした人間と社会に対する冷徹な認識が、物語全体に漂い、読者の不安感を高めていくのである。
最後に、『イン・ザ・ダーク』というタイトルに触れておこう。このタイトルを見たときに、反射的に思い出したのが、MGMのミュージカル映画『バンド・ワゴン』で、フレッド・アステアとシド・チャリシーが夜の公園で歌い踊るナンバー「ダンシング・イン・ザ・ダーク」(「暗闇で踊る」)であった。いうまでもなく単純な連想であり、映画の甘い恋心に満ちた暗闇と、底なし沼のような本書の暗闇は、あまりにも隔絶している。でも、堕ちてしまったら抜け出すことのできない、この暗闇こそが、前川作品の魅力なのだ。現代日本のダーク・サイドを苗床にして、またひとつ、注目すべき警察小説が生まれたのである。
(ほそや・まさみつ 文芸評論家)