インタビュー

2015年11月号掲載

『ヒトでなし 金剛界の章』刊行記念インタビュー

人は、まあみんな人でなしなんです

聞き手・千街晶之(ミステリ評論家)

京極夏彦

主人公は娘を亡くし、職も失い、妻に「ヒトでなし」と罵られた男――。新シリーズの幕開けとなる今作の構造や人物造形、さらに「週刊新潮」で連載中の『ヒトごろし』(土方歳三が主人公)との関連性について。千街晶之氏がお話を伺いました。

対象書籍名:『ヒトでなし 金剛界の章』
対象著者:京極夏彦
対象書籍ISBN:978-4-10-339611-6

――京極さんは普段からジャンル分けを意識して執筆されているわけではないと思いますが、『ヒトでなし 金剛界の章』はいつにも増して分類が難しい小説だと感じました。

 作り方はどれも一緒なんですけど、今回は特に謎に対して解決があるというような構造は取らないよう努力しました。ついやってしまいがちなんですが。

――この作品はどのように発想したのでしょうか。

 発想もなにも、そのまんまですね。人でなしというのは主に罵倒語なんですが、でも、例えばヒドいことをした人を「このケダモノ!」と罵りますけど、獣は大抵そんなことはしないという(笑)。ヒドい行いというのは、概ね極端に「人間らしい」行いだったりするわけです。中学生の頃、半村良さんの『妖星伝』を読んで、有機的なこの星は醜い、無機的な世界の方がずっと美しいというようなことが書いてあって、いたく納得したんです。人って大概ヒドいんだけど、自分がヒドいと思うことは他者のせいにするんですね。いや、そこはちゃんと認めようよと。仏典にしても聖典にしてもそういうことはちゃんと書いてあるわけだけれども、どうも都合よく解釈しがちなんですね、凡人は。論理や真理などというものと人間性みたいなものは、時に咬み合わないものですよ。出家なんてのは執着を捨てて、家も社会も自分も、何もかも捨ててしまうわけだから、こりゃもう、そういう都合の良い凡人感覚で見たなら立派な人でなしですよね。

――それで後半、寺が舞台になるわけですか。

 当初、新潮社の依頼は「架空の伝統仏教宗派を作って、その嘘の歴史を書く」的なものだったんです。でも、伝来から現在まで書くとなると、一年につき三行くらいしかかけないですから(笑)、偽史の年表を作るのは面白いんだけど、そんなもの誰も読まない。小説じゃないですし。だから一応頭の中で組み立てて、その最後のところを書いてみようかなと。

――寺に着くまでの前半は、仏教的なモチーフを展開するための導入部と考えていいでしょうか。

 導入というわけではなくて、最初からずっと同じようなことを書いてるんだけれども、始めの方はただのろくでなしのたわ言ですね。でも言ってることやってることはあんまり変わらないのに、回りの解釈次第で見え方が変わってくる。お寺に入るともう、僧侶の説教みたいに思えてくるという、そういう仕組みにならんかなと。まあ、お寺のお坊さんの話は前に書きましたからね。お寺はもういいかなという。

――普通、何かをするのが主人公だと思うのですが、これほど自分からは何もしない主人公というのも斬新ですね。

 いやいや、僕の小説は座敷で話してるだけとか、本屋で話してるだけとか、そんなのばっかりだし、視点人物も何もしないことが多いんですけど(笑)。ただ、本気でどうでもいいと思っている人を視点人物にするというのは意外に難しいんですね。自分からは何もしないし、巻き込まれることもない。主体性も好き嫌いもやる気さえないんですからね。もう無理矢理にかつぎ出す形にしないと、話はまったく進まないわけで。いや、実際そんなに進まないんですけどね。

――主人公である尾田(おだ)に、友人の荻野(おぎの)が何かと議論を吹っ掛けてくるのも話を進めるためですね。

 実際にいたらウザいキャラですね荻野(笑)。ただ、荻野もある程度の正論は言ってるんですよね。人によっては荻野のほうが筋が通ってるように思えるはずで、それが環境によって徐々に孤立していくわけですね。議論ではなくて、説教されているような感じになっていくんですね。尾田のほうはバカのひとつ覚えのように同じことを言うだけなんだけど。辛気臭いんですが、元の企画が宗教モノだったのでこれは仕方ないですね。

――荻野は矛盾や迷いや野心を抱えた一番普通の人という感じでした。尾田と荻野のあいだのグラデーションの部分に、人でなしになろうと修行しているけれどもなれないと言っている荻野の祖父がいたりするんですが、尾田だけが人でなしになれたのは何故でしょう。

 人は、まあみんな人でなしなんです。どの辺で線を引くか、どこで社会と折り合いをつけるかというだけの問題で、線引きを間違えたり、折り合いがつけられなかったりすると、生きにくいわけですね。尾田という人はまさにそういうところにいるんだけれども、線を引き直そうとか、何とか折り合いをつけようとか、そういう考えは持たない。ある意味、あるがまま為すがままなんだけど、人は中々そういう境地にはなれないもので。これは理屈じゃないんですね。意識的に論理を超克するのはとても難しいんです。尾田はたまたまそうなっちゃっただけなんですけどね。修行もしてないし、発心(ほっしん)もない。でも、周囲が勝手に教化されちゃう。コミュニケーションなんてものは常に一方通行ですから、そういうことはあるし、そうなりたい斯(かく)ありたいと努力していても、中々行き着けるところでもないです。この宗派は禅宗ではないんだけれども、一種の頓悟(とんご)みたいなものですよね。

――「金剛界」と対になる「胎蔵界」もあるのでしょうか。

 あります、というかできちゃったというか。企画段階では尾田の妻視点の章があって、交互に進行するという構成だったんです。でも、それだと事件を追うような形になるし、それはちょっと普通すぎるので分離させてしまったんです。分離した以上、胎蔵界編は独立した作品になります。

――「百鬼夜行シリーズ」の中禅寺秋彦(ちゅうぜんじあきひこ)や『死ねばいいのに』のケンヤや今回の尾田のように、迷いや偽善や齟齬を抱えた人間を言葉でばっさばっさと斬っていく人物が、京極さんの小説によく出てくるのは何故でしょうか。

 僕は非力で暴力は大嫌いですし、それ以前に「勝ち負け」に興味がない。というか、ゲーム以外の物ごとを勝ち負けで計る行為は愚かだろと思う。勝敗の呪縛から逃れる唯一の道は、戦わないことでしょう。だからどんな時にも土俵には乗らないというのが僕の信条なんですね。上がるとしても行司(笑)。そうしてみると、中禅寺の場合は升席で弁当食ってるところに「悪いけど行司やってくれる?」と頼まれて、イヤイヤ上がる感じでしょうね。ケンヤは新弟子で、土俵には上がらないんだけどじっと見てるから取り組みの分析はできてるというイヤな人。尾田の場合は自分は力士だと思ってたのに「いや、あんた相撲取りじゃないから」と言われて、「え?俺。審判?」みたいな感じですかね。次々転げ落ちてくる力士を見て、ジャッジする側になってたとか。いや、はっと気付くと相撲協会の会長になってたみたいな(笑)。

――普通はないような偶然がいろいろと起きる話ですが、これは意図的なものでしょうか。

 小説にはお約束というのがあって、例えばキャラクターが被ってる場合は「要らない」と言われますね。ストーリーの進行に関係ない要素は必要ないと言われる。でも現実はそんなことなくて、ほとんど必要のない事柄だけで成り立ってるわけです。現実は偶然だらけですよ。あり得ないようなことでも現実には起きるし、その場合も「起きちゃったんだから仕方ない」で済まされる。でも小説はそれでは済まないわけです。必ず何か「そうなった理屈」をつけなきゃいけない。果たしてそうなのかと思うんですね。もちろん、一から十まで作りごとなんだから、作者は細部まできっちりコントロールすべきだとは強く思うんだけど、単純なプロットしか支えられないような書きぶりじゃいかんのではないかと。小説ってストーリーだけじゃないわけで、「事実は小説よりも奇なり」なんて言われるようじゃダメなのかなと思う。でもミステリ好きの習性で伏線なんかも張っちゃうんですけどね(笑)。ただ意図的に解釈不能な回収の仕方をしようと心掛けてるんです。例えば尾田が踏んづけるフィギュアなんかは、何かの象徴のように受け取れるんだけど、よく考えると別にそんなことないぞと。「そんなこともあるかもね」でいいじゃないですか。文芸評論家がイヤな顔するようなものを書きたがっているのかも(笑)。

 もうひとつ言えるとすると、『死ねばいいのに』とか『オジいサン』とか、最近タイトルからして受けなさそうなものばかり書いている節がありますね(笑)。これ、読者が望んでいるものじゃないだろという自覚はある。まあ、ラーメン屋で美味しいラーメンが食べられるのは幸せなことなんだけれど、ラーメンを頼んだのにパスタが出て来て、首を傾げたままいやいや食べたらまあ不味くはなかったという、そういう感じは、好きなんです。

――「胎蔵界の章」の執筆はいつごろになりますか。

 今、「週刊新潮」で『ヒトごろし』というヒドいタイトルの連載をしていまして、それもこのシリーズの一編なんです。それを書き終えてからということになるでしょうね。

――『ヒトごろし』は幕末が舞台の時代小説ですが、主人公は土方歳三で、かなり凶悪な描かれ方です。京極さんの場合、実在の人物が主人公という作品は初めてですね。

 歴史上の人物はよく出てきますが、主人公というのはなかったですね。新撰組ってそりゃあもう大人気なんですけど、現代の視点で冷静に眺めた時、あれはかなりヒドい集団ですよね。思想的背景もないし、哲学もない。結成から崩壊までのわずかの間に大勢殺しますが、殺された数は隊士が一番多いわけで。実は歴史の転換に深く関わっているわけでもない。司馬太郎さんの『燃えよ剣』なんかはカッコいいんだけど、土方歳三なんか作中でそれはヒドいことをしています。ヒドいと書かれていないだけ。だからヒドく思えない。で、司馬史観なんて言葉もあるぐらいで、その見方は半ば事実になっていて、英雄視されたりもしてるんですけど、実際のところはどうだったのか。「そういう時代だったんだ」で済ませちゃっていいものなのか、武士道だとか男の死に場所だとか、そんな陳腐な美辞麗句で語ってしまっていいものなのかと、ずっとそう思ってました。鞍馬天狗の頃は悪役だったんだし(笑)。だってブラック企業どころの話じゃないですよ。隊規違反は切腹なんですから。しかも隊士はみんな若いんですね。それで日常的に人殺しをさせられて、あるいは死を強要されて、それがどんな時代であったとしても平気なわけはないですよ。平気なんだとしたら、それはもうサイコパスじゃないか。そうだとしたら「誠」はどこにあったのか。ないなら誠の字に謝れと(笑)。というわけで『ヒトでなし』の前段として『ヒトごろし』を書いてみようかなと。新撰組ファンの人、ごめんなさいということで。

 (きょうごく・なつひこ 作家)

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