書評
2015年12月号掲載
ギリシャのエロスと日本の古典
――大塚ひかり『本当はエロかった昔の日本 古典文学で知る性愛あふれる日本人』
対象書籍名:『本当はエロかった昔の日本 古典文学で知る性愛あふれる日本人』
対象著者:大塚ひかり
対象書籍ISBN:978-4-10-120517-5
キリスト教が支配していた中世ヨーロッパは科学的に遅れていた。ヨーロッパが世界を席巻したのは、ルネッサンス以降である。そう、ギリシャ哲学の復活、ネオプラトン主義によって、ヨーロッパは世界をリードすることが出来た。ギリシャ哲学の原点はギリシャ神話にある。そしてギリシャ神話の中心にエロス(愛と性)の肯定があるのだ。このギリシャ神話よりも、よりエロスに溢れた神話が日本の神話だ。言ってしまえば、日本文化は、西洋文化の2000年先を走っているのだ。もっと先かもしれない。古典を原文で読むとその事に気付く。
大塚さんの母国語は現代日本語ではない、と私は思っている。彼女の母国語は古文(昔の日本語)なのだろう。解読するように読むのではなく、心に響く言葉として古典が読めるのだと推測する。今まで、いろんな人が源氏物語を現代語訳してきたが、まるでダメだった。現代語訳することに意味がない。原文を心で読まないと意味がないのである。なので、私は、原文と現代語(私の訳)と絵を併記した漫画の源氏物語を描いた。源氏物語の現代語訳をあれこれ読むと原文からかけ離れた訳がされている。多分、明治以降に入って来たキリスト教的ヨーロッパ思想の世界観によってねじ曲げられた教育を受けた日本人が現代語訳し、ヨーロッパの言語を日本語の中に入れて改造された現代日本語を使っているからなのだと私は思っている。文化を逆行させたキリスト教の性を抑圧した世界観では、古典は、理解不可能だ。そのフィルターで解釈すれば、明らかに辻褄のあわない現代語訳になるのだ。大塚さんの書かれた源氏物語の訳と解説というかナビゲーションは、キリスト教的世界観からの視点をなくし、古文を母国語とする人が原文中心にそれを現代の日本人に伝えようとしている姿を感じさせる。大塚さんの今回の本でも書かれていた「帚木」で光源氏が紀伊守の屋敷に方違えで泊った時の「おもてなし、ってのは、下半身のおもてなしもないとあかんでしょ」という、今でいうと「性接待する女の子は用意してないの? そういう娘を出してよ」と下半身接待を迫る言葉に関しても、きちんと解釈されている。私も源氏物語を訳す時、他の人はどう訳したのか気になっていろいろ読んでみた。この言葉を「というような冗談を言った」みたいな感じで訳しているものもあり、思わず私は心の中で「ちょっと待ってよ。ここは、枕営業の強要であって、冗談を言ってんじゃないでしょ」ってつっこんでしまった。私の視点から見ると多くの源氏物語の現代語訳は、エロスを肯定してないので辻褄があわない。本当に原文を読んだことがあるのか疑わしく思ってしまうのは、私だけだろうか。源氏物語の原文は、「隠語(淫語、陰語と言った方がいいかも)」で溢れてることも原文を深読みするとわかる(母国語が古文の大塚さんは当然、そこら辺は全て味わっておられるようだ)。女性器や男性器を意味する言葉等、性的な意味を持たせる言葉の宝庫が源氏物語だ。源氏物語の「帚木」を解読しながら一番私が個人的に気に入った隠語は、「芽」という言葉だ。当然この「芽」は女性器を意味する。また、「女」「目」「愛」という言葉も「め」には、含まれるのだ。源氏物語は直接的な性描写は薄いとされているが、自然の描写によって、性的な描写をしていることは、原文に馴れると一目瞭然だ。そう、自然にエロスを感じて自然にとけ込むのが日本人の性なのだ。世界の文化を2000年以上先取りしている。いや、もっとかもしれない。そもそも、日本の成り立ち自体が男の神と女の神がまぐわって出来たエロい子供たちなのだ。そう、日本の地形はエロスなのである。地形や自然がエロスなのだ。私も何十年も地形のエロスを世に問うて来たが、これは、日本の古典の流れからの整合性のある主張なのだ。
古典を原文でいきなり読むのはかなり難しいだろう。まずは大塚さんのこの本を読み常識を洗ってから参ろう。
(えがわ・たつや 漫画家)