インタビュー
2016年2月号掲載
『アメリカ最後の実験』刊行記念特集 インタビュー
音楽・アメリカ・荒野、そして家族
対象書籍名:『アメリカ最後の実験』
対象著者:宮内悠介
対象書籍ISBN:978-4-10-121541-9
――この小説は、音楽が一つの大切なキーワードですが、人生最初に意識した音楽体験はどんなものでしたか?
一、二歳のころ、大竹伸朗氏が当時結成したノイズバンド「JUKE/19」の音楽を家族がかけていて、それを好んで聴いていたとのことです。してみると、私の音楽体験はノイズからはじまったということになります。これを人生にカウントしていいものか、迷うところではありますが(笑)。
――それではこれまでの人生最強の音楽体験は?
高校のころに入ったクラブです。まさにいま新たな音楽が生まれつつあり、それに立ち会っているのだという確かな肌触りがありました。「出尽くしている」というシニカルな観点からすれば、それは錯覚であるのですが、こうした錯覚こそが、あらゆる誕生の礎でもあるのだと信じます。
――書くことと音楽にはどのような相関があると思いますか。この小説の基本のモチベーションはどんなことだったのでしょうか?
先のクラブなのですが、実を申しますと、上手く乗って踊ることができず、友人に笑われました。ただ、このとき乗れなかったことの疎外感によってこそ、文章を書く資格を得られたような感も、ないではありません。
――現代の電子音楽に対して、大切なアイテムとしてパンドラという謎の楽器が登場しますが、作者としてはどんな形状、音色をイメージしていますか。
一言で言えば、アナログとデジタルの境界を突破し、境界を無化する楽器です。比喩的に言えば、それは電子が生み出すアコースティックであり、紙に書かれた電子書籍でもあります。かつて、電子楽器の開発に携わっていたことがありまして、〈パンドラ〉はその際に着想を得ました。
――もう一つの要素である西海岸のイメージはどんなご経験に根ざして、広がっていったのでしょうか?
四歳のときに家族の都合でアメリカへ渡ったのですが、最初に降り立ったのがサンフランシスコでした。憶えているのは、居候先の家族が街頭でTシャツを売っていたことや、買ってきたココナッツが割れずに石で叩き割ったこと、海へ延びる長い桟橋を見て、あれはどこへつづいているのだろうと幼心に考えたことなどです。
――ご自身のアメリカ体験とこの作品に出てくるアメリカに重なるところがあるとしたら、どんなところでしょうか。
主人公である脩(シュウ)は、アウェーである海外で知略を働かせ、音楽をゲームと割り切り、難関の音楽学校を受験するピアニストです。ある種のダークヒーローであるのですが、慣れない海外で戸惑い、差別を受け、思うように言葉も話せなかった私がなりたかった、もう一人の自分でもあります。
――これまでの作品とこの小説で、創作について変化(進化、深化)してきたことがありましたら、教えてください。あるいは意識して変えていることなどはありますか。
いま、お答えするにあたって昔のメモを見たところ、「音楽版『グラップラー刃牙』」とありました(笑)。と言いますのも、『アメリカ最後の実験』は私にとって、はじめての連載作品となります。ですから、これまでよりも引きや物語性を重視し、読む側も書く側も、先へ先へと進めるような展開を目指しました。テーマ面では前作『エクソダス症候群』と対をなすところもありますが、まったく別個の作品としてお楽しみいただければと考えています。
――今後の作品について、どんなご予定がありますか。
次は〈疑似科学シリーズ〉と銘打って連載をしていた短編集が、講談社から刊行される予定です。ほかにも、たまっている原稿が多数ありますので、今年を収穫の時期にできましたらと......。
――読者にお伝えしたいことがありましたら、どうぞ。
今作は音楽のほかに、もう一つテーマがありまして、それは家族や疑似家族、そしていわゆる機能不全家族です。『アメリカ最後の実験』にはさまざまな家族の形が登場しますが、さらにそれを包括するものとして、アメリカという一つの国家を、巨大な疑似家族に見立ててもいます。
今回、「才能に、理想に、家族に、愛に――傷ついた者たちが荒野の果てで掴むものは」というキャッチをつけていただきました。やや面映ゆくもあるのですが、まさに才能や理想、家族や愛をときに追い求め、ときに縛られ、焦がれ、あるいは傷ついた人たちへ、なんらかの未来像を示すことができれば、作者としてそれに勝る喜びはありません。
(みやうち・ゆうすけ 作家)