インタビュー

2016年4月号掲載

『眩』刊行記念特集 インタビュー

謎の女絵師を追って

朝井まかて

対象書籍名:『眩』
対象著者:朝井まかて
対象書籍ISBN:978-4-10-121631-7

――『眩(くらら)』は女絵師・葛飾応為の生涯を描いた長篇ですが、葛飾北斎に娘がいて、父の右腕として絵筆をふるっていたことを初めて知る読者も多いかもしれません。朝井さんが彼女を書こうと思ったのはなぜだったんでしょうか。

朝井 応為の「吉原格子先之図」の実物を美術館で見たことがきっかけでした。北斎に絵師の娘がいたことも、その作品も以前から知ってはいたんです。でも実際に目の当たりにしたら、他の浮世絵とはまったく違う表現方法、そして光と影の美しさに息を呑みました。まさに「出会ってしまった」んです。しかも、北斎に関しては非常に史料が多いのですが、応為の人生、画業は謎が多い。その点にも惹かれました。

 ただ、有名なエピソードは残っていて、応為は一度だけ嫁いでいるんですが夫も絵師で、彼の絵を「下手だ」と鼻で嗤って離縁になっている。それから一切、家事をしないとか、身なりに構わないとか。江戸時代の女性は"忍従"のイメージが強いですが、江戸では気随気儘が売りのような女子も多かったんですよ。それでも、応為の生きようは突出しています。彼女にすれば離縁もこれ幸いで、これで画業に没頭できるってなものだった。あの時代になぜそんな生き方ができたのか、彼女にとって「描く」とは何だったのか......それを、私は問いかけてみたかった。だから彼女が絵を描く場面は一部始終、きっちり書こうと最初から決めていたんです。

――応為が絵具を自作したり、効果的な構図を考える場面は大変リアルです。執筆前に相当準備なさったんですか?

朝井 興味が湧けば行き先も決めずに漕ぎ出してしまうたちなので、いざ書く段になって「えらいこと、始めちゃった」と泣いてます。いつもです(笑)。『眩』については、黒川博行さんの奥様が日本画家なので、執筆前に画材について教えていただいたり、研究者さんにもご教示を願いました。ただ、私の質問内容で「何もわかっていない」ことはすぐにお察しになったでしょうから、大丈夫か? って、危惧されていたと思います(笑)。

 そもそも研究者の間でも、応為の作品の制作年や、彼女が北斎のどの絵に関わっていたのかは特定されていません。そこで北斎と応為の人生、時代の出来事をひとつの年表にして、あとはもう自分なりの想像、推察で再構築していきました。

 応為が題材や構図、色遣いを思案する場面では、私自身、ウンウン唸って書いていましたね。でも楽しくもありました。

――北斎は「美人画では応為にかなわない」と言っていたそうですね。私たちが目にする北斎作品の女性は、実は彼女が描いていたのかもしれない。

朝井 充分あり得ますね。ただ、誤解してほしくないんですが、応為は自分の絵が北斎名義で世に出ることや、工房の一員として働くことを不満には思っていなかったはずです。むしろ職人として、日々の仕事をまっとうすることに誇りを持っていた人だと思う。傑作をものしようとか、父を越えたいとか、そういう野心すらなくて、ただひたすら己の画業と格闘したんでしょう。

 その無我夢中な数十年の末に、彼女の芸術家としてのオリジンが「吉原格子先之図」で発露した。その瞬間に立ち会えたことは、書き手としての大きな喜びでした。

――西洋画の技法を使い、光と影を写し取った。応為が「江戸のレンブラント」と称されるゆえんです。

朝井 研究者の方によると「吉原格子先之図」に使われた紙や絵具は安物なんだそうです。それ以前の作品は注文画ですから、良い画材を使っている。なぜあの絵だけ? と考えると、大地震が起きているんです。とすると応為は仕事ではなく、自分の欲求としてあの絵を描いたのではないかと推察しました。

 災いに遭っても逞しく商売を再開する吉原と、そこに束の間の夢を求める人々を描くうちに、気づけば人生の光と影までも写してしまったんじゃないか、と。

――それにしても北斎や国芳のように生前から有名だったわけではないのに、よく現代まで作品が残りましたよね。

朝井 純粋に、絵の持つ力ゆえでしょう。多くの傑作を残した北斎は持続性の大天才ですが、束の間にしろ自分の光を放った応為もやはり天才だったと思います。

 (あさい・まかて 作家)

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