書評

2016年6月号掲載

江戸の事件にのぞく、平成ニッポン

――青山文平『半席』

池内紀

対象書籍名:『半席』
対象著者:青山文平
対象書籍ISBN:978-4-10-120093-4

 直木賞受賞後第一作。あざやかな着想、あざやかな筆さばき。六十歳をこえてデビューした人が、ためこんだ元手で一挙に花を咲かせたぐあいだ。
 時は十九世紀はじめ、いみじくも「文化」を年号とした頃あい。世界有数の大都市江戸は人口百万をこえていたのではあるまいか。そこにあって、いるかいないかの下級武士が主人公だ。職のない小普請組がワンサといる。片岡直人がやっとありついたのが徒目付(かちめつけ)、職員の監察係。ただし家格は「半席」といって、父と同じく一代御目見(いちだいおめみえ)。このまま二つ以上の御役目につかず代替りすれば、もとの御家人にもどされる。父子二代がかりでも二度の御役目につけば、代々にわたるレッキとした旗本、永々(えいえい)御目見に出世できる。
「自分は無理でも、いずれは生まれてくるのであろう自分の子には、要(い)らぬ雑事に煩(わずら)わされることなく、御勤めだけに集中させてやりたい」
 愛すべき、優等生の青年である。となれば、ひたすら御勤めをきちんと果たすこと。それを心に決めているのに、肝心の上司がこっそりと「頼まれ御用」を言ってくる。へたに応じて表の御用に支障をきたすと、出世の糸口がフイになりかねない。にもかかわらず一度請(う)けたのが二度となり、三度、四度ときて、全六話が裏の御用の顛末。
 どれもいたってヘンテコな事件なのだ。当年八十九歳という高齢ながら、カクシャクとして表台所頭(おもてだいどころがしら)を務めていた老人が、木場へ鱮(たなご)釣りに出かけ、何を思ったか、やにわに筏(いかだ)の上を走り出し、水にとび込んで水死した。
 お次の事件は、老人サロンの仲のいい両名、ともに八十七歳。会も押し詰まった頃、やにわに一方が脇差抜いて斬りかかった。
 三つめ。ほんの涙金で一季奉公を二十年以上もリチギに勤め上げた四十八歳の男が、不意に姿を消したとおもうと、フラリと主家にあらわれ、何でもないやりとりのくだりに主人の背中を突きとばした。踏み石に頭を打ちつけ、主人は絶命。主殺しには鋸挽(のこぎりびき)のすさまじい刑罰が待っている。
 表だっては、すべて決着のついていることなのだ。証人もいれば当人の自白もあって、裁きのとおりに進行する。ところが粋狂な組頭がそっと御用を誘いかける。なぜ事件が起きたのだろう。どうして斬りかかったり、突きとばしたりしたのか、当人から訊き出してくれまいか。
 上司の組頭は、初出のときは内藤康平(こうへい)といった。このたび内藤雅之(まさゆき)と改めてある。意味深い改名である。康平は「公平」を連想させる。たしかにそんなお役目をになっているが、もっと人間味あふれた大きな人物であって、いわば体制内の雅(みやびや)かな平常心の男。直人こと青っぽい直情型の青年を、よく見ている。加えてもうひとり狂言まわしがいて、こちらは沢田源内といったり、島崎貞之といったり、名前も商売もくるくるかわる。体制外の雅かな平常心の役まわり。
「劇」は不可解な事件の解明だが、これに寄りそい、さらにもう一つある。円熟した大江戸という歴史のドラマ。頼まれ御用の舞台となる神田多町(たちょう)の居酒屋七五屋(しちごや)からして、フクイクと文化が匂ってくる。主人喜助が釣り上げた魚。その料理法。「洗いってのが、ありがてえなあ。刺身は野締(のじ)めでも喰えるが、洗いは活締(いけじ)めじゃなきゃあ喉を通るもんじゃねえ」
 そんなセリフに、青年は反発する。武士が喰い物を云々(うんぬん)するのはいかがなものか。そんなときの雅之の返答。「けどな、旨いもんを喰やあ、人間知らずに笑顔になる」
 ミヤビ男は、武士は食わねど高楊子の貧国の哲学を歯牙にもかけない。自分の言葉どおり、旨いもんとなると、とてもいい笑顔になる。およそ徒目付らしくない。
 物語のドラマは、ささいなことなのだ。ほとんど誰の目にもとまらない。本人だけに見えていたこと、気にかけていたこと、ちょっとした思いこみ、こころはなれなかったこと。そんなさなかのほんの一瞬だ。その人の視点に世界がうつったとたんに事件が起きる。もはや元へはもどらない。
 語られているのは江戸・文化年間の町と人だが、そっくりそのまま平成ニッポンの町と人にあてはまる。そのあやうさと幸せ。新鮮で警抜で、意味深い。優れた時代小説の得意ワザであって、かくもあざやかに「現代」をとらえることができるのだ。

 (いけうち・おさむ ドイツ文学者・エッセイスト)

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