書評
2016年8月号掲載
隠居せず、戦場に立ち続けた実在の武将
――近衛龍春『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』
対象書籍名:『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』
対象著者:近衛龍春
対象書籍ISBN:978-4-10-100451-8
戦国時代を舞台にした良質な歴史小説を書き継いでいる近衛龍春は、嶋左近、前田慶次郎、直江兼続、長宗我部元親、伊達政宗など、有名な武将を取り上げることが多かった。
ところが、最新作の題材に選んだのは、弓の名手として後世に名を残しているものの、かなりの戦国マニアしかその存在を知らないマイナーな武将・大島光義である。おそらく、光義を主人公にした長編歴史小説は、本書が史上初ではないだろうか。
物語は、光義が、会津征伐を決めた徳川家康の軍に加わるため、準備をするところから始まる。と書くと、戦国ものではお馴染みの場面のように思えるが、尋常でないのは、光義の年齢が九十三歳ということである。すぐに時間が遡り、美濃・斎藤家の家臣として、墨俣を攻める織田信長の兵を次々と倒していく光吉(後の光義)の奮闘が描かれるのだが、この時、既に五十三歳なのだ。後に信長の麾下となった光義は、壮絶な撤退戦になった金ヶ崎の戦い、鉄砲隊が勝負を決した長篠の合戦などを、最前線で戦うことになる。ただ、食い意地の張った従者・小助と光義のユーモラスな会話が、シリアス一辺倒になるのを防いでいて、二人が各地を転戦するだけに、ロードノベルとしても楽しめる。
「弓馬」という言葉がある。狭義には弓術と馬術のことだが、広義には戦争や武家の意味もある。ここからも分かる通り、弓術は武士の花形だったが、戦国時代になると、その役割が鉄砲に取って代わられた。また弓衆は、敵と刃を交える槍衆と違い、一番槍や一番首といった華々しい武功とも無縁なので、どうしても影が薄くなりがちである。
だが本書では、鉄砲と違って連射が可能で、寝そべるような不自然な体勢からでも放てるなど、光義が弓の特性を活かして暴れ回るだけに、驚愕のアクションと派手な合戦シーンが連続する。弓は弾幕を張るように一斉に射て、敵を倒すと考えていたので、一本の矢で敵一人を確実に倒す光義の伎倆(ぎりょう)には圧倒された。その意味で、ジャン=ジャック・アノー監督の映画『スターリングラード』、クリント・イーストウッド監督の映画『アメリカン・スナイパー』など、狙撃をテーマにした作品が好きなら、より面白く感じられるだろう。
時代小説には、池波正太郎『剣客商売』の秋山小兵衛、藤沢周平『三屋清左衛門残日録』の三屋清左衛門のように、老人を主人公にした作品の系譜がある。本書も、その一つといえるが、隠居後に、長い人生経験を活かしてトラブルの解決に力を尽くす小兵衛や清左衛門に対し、隠居など考えていない光義は、戦場に立つことにこだわり続ける。
そのため光義は、槍の達人で同世代の武藤彌兵衛に弓をバカにされたら、彌兵衛の言葉にも一理あると思い、槍術で有名な奈良の宝蔵院に入門したり、寄る年波には勝てず弓の威力が衰えたと感じるや、それを補うために肉体を鍛え直したりと、常に新たなことに挑戦している。
平均寿命がのびた現代では、定年後を"余生"ではなく、"第二の青春"ととらえ、起業をしたり、ボランティア活動に参加したりする高齢者も増えている。生涯現役を貫き、かつて想いを寄せた女性との再会、強引に入門してきた女弟子との関係など、女性にも振り回される光義のバイタリティは、光義と同年代の読者はもちろん、老後が頭をよぎり始める中高年にも、これからの人生をどのように送るべきかのヒントを与えてくれるはずだ。
光義は、弓が過去の遺物になった時代を生きたが、メカニカルな鉄砲には心がないとして嫌い、どれほど揶揄されても、心と体を鍛えなければ使いこなせない弓を愛用し続けた。
最期まで信念を貫いた光義の一途さは、効率や合理性を追い求めるあまり、心の豊かさを忘れつつある現代社会への批判に思えてならない。そして伝統の弓で、最新の鉄砲に文字通り一矢報いた光義は、古くても正しい価値観は決して廃れないことも教えてくれるのである。
(すえくに・よしみ 文芸評論家)