書評
2016年10月号掲載
橋を渡れないからこそ舟を漕ぐ
――梶よう子『五弁の秋花 みとや・お瑛仕入帖』
対象書籍名:『五弁の秋花 みとや・お瑛仕入帖』
対象著者:梶よう子
対象書籍ISBN:978-4-10-120952-4
本書『五弁の秋花』は、「みとや・お瑛仕入帖」シリーズの第二作である。
まず、この「みとや」について説明しておくと、食べ物以外なら何でも扱う三十八文均一の店。ようするに江戸の百均である。当時の三十八文というのは、かけそば二杯と湯屋代を足したくらいの銭だというから、百均ではないか。もう少し高いかも。三十八なので「み」「と」「や」。長太郎とお瑛(えい)の兄妹で営んでいる店で、長太郎は仕入れ担当だ。ところが一度出掛けるとなかなか帰ってこないし、儲けにならないものを平気で仕入れてきたりする。
もう一つだけこの兄妹の事情を書いておけば、お瑛が十一歳、長太郎が十七歳のときに日本橋で小間物屋を営む両親が永代橋の崩落で死去。さらに店屋敷も借金取りに取られ、柳橋の料理茶屋「柚木(ゆずき)」の女将お加津に助けられたとの経緯がある。
そのとき裏で暗躍したのが叔父の益次(ますじ)だというのに、本書の冒頭近くで、「もう暮らしは落ち着いたかしら」とお瑛が空を見上げながら益次夫婦を思い出すシーンにおやっと思う読者は、本書を読み終えたあとに前作『ご破算で願いましては』を読まれたい。「みとや」の店番をしてくれる菅谷直之青年についても、どうやってこの兄妹と知り合ったのかは前作に書かれているので、気になる方はそちらを参照されたい。
シリーズ第二作とはいっても、前作を未読でも大丈夫なのだが、このように時折、気になる箇所があるかもしれない。そういうときは、あとで前作を読めばそれで十分である。
まだ説明が途中であったので続けると、両親の死後、お瑛は永代橋を渡れなくなっている。そこで登場するのが、猪牙舟(ちょきぶね)なのだ。この猪牙舟については本書の中に次のような箇所がある。
「屋形船などの周りで、水菓子や煮物などを売る、うろうろ船と呼ばれる荷足船(にたりぶね)や、沖に碇泊している弁才船(べざいせん)の積み荷を陸へ運ぶ瀬取船(せどりぶね)などの小舟は、まとめて茶船(ちゃぶね)と呼ばれている。猪牙舟も、茶船のひとつだが、その中では小さいほうになる」
「猪牙舟の特徴はなんといっても、船の先端部、水を切る舳先を水押(みよし)というが、それが、ぐんと突き出していることだ」
細身の舟だからすごく揺れる。いつ何時、川に投げ出されても不思議ではない。その代わり、どの舟よりも速い。水面を切って、滑るように走る。お瑛がこの猪牙舟を操ることについては前作にこういう記述がある。
「風を切って川面を走ると気持ちが良かった。お父っつあんとおっ母さんが逝ってしまった悲しみも、借金で店屋敷を取られて、通りにほうり出された悔しさも、舟を漕いでいるときだけは忘れられた」
しかも橋を渡ることが出来ないお瑛にとっては、対岸に渡る橋代わりにもなる。本書でも「みとや」の近くに惣菜屋を開いた元花魁(おいらん)の花巻ことお花が、お瑛の猪牙舟に乗るくだりが出てくる。お瑛が猪牙舟を操るときは形相が怖いほど変わるので、長太郎は乗るのを嫌がるほどなのだが、お花は川面を滑る猪牙舟が気持ちいいと言う。お花もまた、忘れたいことがあるのだろうか。
『ご破算で願いましては』『五弁の秋花』と続く、この「みとや・お瑛仕入帖」は、長太郎お瑛の兄妹のまわりに集まるさまざまな人間模様を描く連作だが(たくさんあるので、ここには書ききれない。印象的なドラマが多いということのみを記しておきたい)、物語の中心にあるのは、この猪牙舟といっていい。お瑛が猪牙舟を操るシーンが圧倒的に多いというわけではないが、強い印象を残すのである。
前作の帯には「しっかり者の看板娘お瑛と若旦那気質の頼りない兄。凸凹コンビが活躍する下町よろず屋繁盛記」とあり、たしかにその通りではあったけれど、猪牙舟のシーンに象徴されるように陰影までをもしっかりと描いているから胸に残るのだということを書いておきたい。
(きたがみ・じろう 評論家)