インタビュー
2017年1月号掲載
『白洲正子のおしゃれ 心を磨く88の言葉』刊行記念インタビュー
「スマート」であるかどうか
対象書籍名:『白洲正子のおしゃれ 心を磨く88の言葉』
対象著者:白洲正子・牧山桂子
対象書籍ISBN:978-4-10-310722-4
――頭がいいし、センス抜群だし、旦那様(白洲次郎氏)もカッコいい。白洲正子さん(一九一〇~九八)は没後二十年近くを経ても、つねに世の多くの女性たちにとって憧れの的です。本書に紹介してくださった正子さん愛用の着物や帯は、「白洲好み」というのでしょうか、シンプルで渋くて、でも可愛さもあって、その趣味の良さに見惚れてクラクラしそうです。一人娘である桂子さんはどのように思われますか。
彼女にとっては、洋服だろうと着物だろうと、骨董だろうと風呂敷だろうと、区別なく同じなんです。身の回りにあるものすべて等しく。おそらく旦那も。自分の趣味の一部として、選んだのだと思います。
――そういう好み、趣味は、やはり幼い頃からの、着物が大好きだったお母様(樺山常子さん)の影響でしょうか。
樺山家の趣味と正子の趣味とが同じだったかというと、違うと思います。正子は常子さんのことを着る物しか興味のない人だった、なんて言っていました。常子さんの着物で正子が持ってきたものは小袖と揉紙の帯の二つ(本書に掲載)だけです。他にもあるのかもしれないけれど、見たことがありません。おそらく樺山家の趣味自体をあまり好きではなくて、正子の異常なまでの探究心が、のちの正子らしい趣味をつくったんじゃないかと思います。着る物も焼き物もとにかく自分のものにしよう、と一生懸命だったのではないでしょうか。これは私の想像ですが、着物に対する執着心のようなものは常子さんから受け継いで残っていて、だから「こうげい」(染織品を扱った店)で自分の好きなものを追求しよう、となったのではないかと思います。
――とりわけ着る物への執着は強かったのですね......。
一時代前は、世間一般では着る物にはうるさかった。人は見た目ではない、着る物で判断してはいけない、などと言われますが、やっぱりあまりにおかしな格好をしていたり異様な色柄のものを着ていたりする人には、共感はできないものです。正子の場合は人様に良く見られようというのではなくて、自分で気に入らないものを着ていることが嫌なわけです。だからまず着る物が元になる。そしてその物欲たるやすごかった。自分の手の届く範囲にしていたのは感心なことですけれども、着ていくべきふさわしい物がないと思った時には、何処にも行かない。『かくれ里』の時もそうでしたが、取材旅行の前となると必ず何か買ってくる。バッグも取材ノートも妥協しない。おそらく自分の中で行先に関連付けて買い物することで高揚するのでしょうけれど、要するにそういうのが「好き」なんですね。欲しい、それだけ。こういうことなにもかもすべてが彼女の一部なわけです。もしかしたら家族だって彼女の「好き」の一部かも(笑)。
――えっ! 何かあるたび新しくされては困りますね、家族だけは......。さて、正子さんは地味な着物をカッコよく着る、というイメージがありますが、着物や羽織の裏に明るい色の布地を配したり、見えない部分にもおしゃれをされてました。
あまり派手なのって、昔はダメのようでしたからね。だから裏地に持ってきて憂さ晴らししてたんじゃないかしら。次郎さんも派手なものを嫌がりましたね。着る物にうるさかったです、すごく。白洲家には、だれが言い出したのかわからないのですが、スマートという言葉がよく使われていました。スマートであるかどうかが白洲家の基準。これは白洲家の「英語日本語」で、本来の意味の頭がいいとか、素敵だとかパリッとしてるとか着飾っているとか、そういうのでもないのです。なんて言ったらいいのでしょうね......、着ている本人と服や身の回りの物が合っていて、見た目にも心地よい、そういうことをスマートと言う気がします。
――本書の正子さんの言葉には、そういうスマートに通じるエッセンスが凝縮していますね。また、この年末年始には正子さんの着物や帯を展示する特別展「白洲正子ときもの」(12/27~1/16)も松屋銀座で開催されます。
母の昔の着物には、現在はもうできなくなった織りや染めの技術が見られるものも多いので、そういうところをぜひ若い方々に見ていただきたいですね。
(まきやま・かつらこ 白洲次郎・正子長女)