書評

2017年3月号掲載

イタリアの「真の姿」

――カルミネ・アバーテ『ふたつの海のあいだで』(新潮クレスト・ブックス)

ヤマザキマリ

対象書籍名:『ふたつの海のあいだで』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:カルミネ・アバーテ著/関口英子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590135-6

 地中海の真ん中にユーラシア大陸から細長く突き出した"長靴みたいな形の国"。この特異な地形をした半島では、古代からフェニキア、エジプト、ギリシャ、エトルリアといった様々な高度文明が交差し、貿易においても恰好の中継地として繁栄した。こうして、あらゆる人間社会の情報をもたらされることで、地中海世界のハードディスク的存在となったイタリア半島は、同時に他の地域では起こり得ない苦悩や葛藤とも常に向き合わされてきたとも言える。
 この本のタイトルである"ふたつの海"とは、まさに古代文明のあらゆる出汁が混じっているとも言うべきティレニア海とイオニア海を指しているが、舞台であるカラブリアという地域を正確に思い浮かべられる人はそう多くはないようにも思う。外国人に説明をするとき、イタリア人達は「カラブリアは南イタリアの、シチリアという大きな石を蹴っている長靴のちょうど爪先にあたる、あのへんのことだよ」という言い方をする。ここで意識するべきなのは、長靴の下半分の地域全体を"南イタリア"とひとくくりにしてはいけないという点だ。古代から、イタリア半島のどこよりもひときわ複雑な歴史を築かざるを得なかった長靴の下半分は、地域によって大きな差異がある。
 フィレンツェで画学生をしていた頃、暮らしていたアパートをシェアしていたのが、カンパニアとカラブリア、そしてシチリア出身の学生たちだった。彼らは某かの結果を実らさなければ地元には帰れない、という使命を背負って、愛する家族のいる故郷を去り、"北側"へやって来た南イタリアの同士達でありながら、微妙な対立意識を常に持っていた。
 ある日この学生たちと家賃を巡って大喧嘩になり、カンパニアの学生が荷物をまとめてそこから出て行った後、カラブリアの学生から「お前への恨みは必ず晴らす」と走り書きした紙切れが届いたそうである。その後このふたりがどうなったのか知る由も無いが、あの時カラブリアの学生が、こっそり自分たちより家賃を少なく払っていたカンパニアの学生に対して尋常ではない怨嗟を抱いていたことは確かであり、このやりとりは、私がイタリアを少し怖いと感じた最初の瞬間だった。
『ふたつの海のあいだで』は私にとって、そんな極めて短絡的な記憶からしかイメージできなかったカラブリアという地域と人間性に、しっかりとした質感のある肉付けをしてくれた小説といえる。イタリアで出版関係の仕事に携わっている家族と暮らしているというのに、私の周りでアバーテを読んだ人は殆どおらず、私にとってもこれが初めての彼の作品であった。にもかかわらず、まるでアバーテの世界観を把握し切っている読者のように、文節の端々から、どんな苦渋も困難も生きる意欲へのエネルギーに変えて燃焼してしまうエネルギッシュな登場人物たちや、紺碧の海と青い空に包まれながらもどこまでも乾いた、そしてどこか物悲しいカラブリアの情景が、鮮明に脳裏に浮かび上がってくるのには驚いた。
 まるで映画を見ているような心地で瞬く間に読み終え、興奮に煽られるがまま夫にそのあらすじの説明を試みるも、「ンドランゲタ」という名前を口にした瞬間、その表情が不意に歪んだ。シチリアのマフィアも凌ぐとさえ言われているこのカラブリアの犯罪組織の脅威は、現在北イタリアにまで及んでいるからだ。
 南イタリアに蔓延(はびこ)るこうした幾つかの犯罪組織の起源には、古代から常に他民族によって支配されてきた彼らの、自分たちのものであるべき土地への執着と情念が拘(かかわ)っている。カラブリアの場合は特に、険しい立地条件や経済的燻りも含めて、愛憎とも解釈できる強烈な思い入れが故郷に対してあるのかもしれない。そんな自分たちの土地の記録を僅かながらでも残してくれた、アレクサンドル・デュマという古(いにしえ)のフランスの文化人に対する屈託の無い信仰のような敬意を抱く登場人物達に、この土地の性質が生々しく垣間見えてくる。こうした独特の地域性は、イタリアが未だに内面では統一されていない確固たる裏付けにもなるが、それこそが、まさにこの国の真の姿ともいえる。
 作者がアルバニア移民の集落の出自であったり、ラテン語に近いとされるカラブリア方言が随所に用いられているという点も含め、どこまでも深く、そして複雑な要素を秘めたイタリアという国のあり方を、この作品は力強い説得力を持って読者に伝えてくれるのだ。

 (やまざき・まり 漫画家)

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