書評

2017年7月号掲載

多義的な読み方を可能にした著者のスタンス

――上原善広『路地の子』

荻上チキ

対象書籍名:『路地の子』
対象著者:上原善広
対象書籍ISBN:978-4-10-120687-5

『路地の子』。「自伝的ノンフィクション」と自己規定されている本書の大半は、父〈龍造〉やその周辺人物の人生に関する記述で占められている。「おわりに」において、著者〈善広〉がようやく顔を出し、父〈龍造〉の人生が自分の人生にどのような影響を与えたかについて少しの考察を添える。その意味で本書は、親世代のリアリティを活写した「聞き書き」といったほうがしっくりくるかもしれない。
 だが「自伝的」という言葉を踏まえて読み進めると、このタイトルの意味がわかってくる。作中に出てくる〈善広〉もそうだが、〈龍造〉もまた「路地の子」である。それだけではない。本書の中に出てくる、他の多くの登場人物もまた「路地の子(たち)」である。それぞれが環境や時代に応じた生活を築いていく。それはもちろん、〈龍造〉と対立していた人物たちもである。
 彼らは、差別を受け、教育などから排除され、貧困化しやすい状況の中で、生き延びる術を全力で模索してきた。その実相は複雑である。「路地の子(たち)」は、平時はもちろん、戦時下の軍隊内ですら差別されてきた。他方では、「路地の外」から来た人に対し、時に距離を築いたりもする。
「路地の子(たち)」が「差別に抗う」という一点でつながれるかといえばそうではなく、路地の人間同士でも、対立や断絶が頻繁に発生している。当然のことだが、路地に暮らすからといって、あるいは差別を受けているからといって、それのみが唯一にして最大のアイデンティティとなるわけではない。本書で描写されている様々な衝突が、決して「思想的対立」といったものでくくれないところもまた重要だろう。それは、様々な生活の場面の描写抜きには忘却されてしまうかもしれない。
 例えば、差別解消のために同和事業に取り組む者もいれば、グレーな仕方やイリーガルな仕方でビジネス化する者もいる。そんな中、〈龍造〉は部落解放同盟と徹底して距離をとってきたが、その大きな理由は、かつて大きく衝突した人物が取りまとめ役になっているという属人的なものだった。こうした生身の描写から、「路地の子(たち)」の歩みが伝わってくる。
 路地をテーマにした記事や書籍は、しばしば「闇」「タブー」「暴露」「告発」といった言葉でそのインパクトを強調されてきた。著者・上原自身も、そう理解される文章を書いてきてもいるし、そこには評者が同意できない議論も含まれる。そのため、本書の取材対象についてもまた、よりスキャンダラスに、あるいはより攻撃的に取り扱うことはいくらでもできただろう。
 だが本書のまなざしには、いま列挙したような従来の切り口との差異も感じ取れる。日常的な風景について親密的に、かつては折り合いがつかなかった環境に対して和解的に、筆が進められているようにとれるのだ。
〈善広〉の人生に、暴力的なほど大きな影響を与えた〈龍造〉の人生を、対話的に再構築していくこと。そのことで、〈善広〉のなかにあった一種の迷いや復讐心が解体されていくこと。その構成が、読者にも「歩み寄り」を追体験させるようである。
 著者のスタンスは、かつての風景の「静かな聞き手」に徹しているようであり、個人としての解釈や評価、事後的な補足などに対しては抑制的である。それがゆえに本書は、他者の生活を身近に思わせるような読後感をもたらしてくる。
 そのうえで本書は、多義的な読み方ができる。コミュニティ独自の合理性や慣習を丁寧に切りとっている文化史として。戦後70年を超えたタイミングで行われた良質な「家族の生活史」として。事件として記憶されている出来事の内幕を立体化していくルポルタージュとして。何より、当事者のセルフカウンセリングの著として。
 終盤部分、時間の進み方が一挙に加速している点がある。その部分については、著者の他の著作である程度は埋め合わせることもできる。だがあえて付言すれば、そこをさらに加筆して欲しいとも思った。「父への反抗」からの「和解」を経て、その時間軸に踏み込むことは、著者の書き手人生をも含めて「顧みる/省みる」ような自己対話の作業にもなるだろう。読者に対して、それぞれの路地へのまなざしを掘り下げる自己対話を促しているように。

 (おぎうえ・ちき 評論家)

最新の書評

ページの先頭へ