インタビュー

2017年10月号掲載

『守教』(上・下)刊行記念インタビュー

隠れキリシタンの姿を書き残すために

帚木蓬生

帚木蓬生さんが、キリシタンから隠れキリシタンにならざるを得なかった人間たちのドラマを描いた歴史巨編『守教』(上・下)を上梓されます。物語の舞台でもあり、帚木さんの故郷でもある筑後地方の言葉で、お話しいただきました。

対象書籍名:『守教』(上・下)
対象著者:帚木蓬生
対象書籍ISBN:978-4-10-118828-7/978-4-10-118829-4

img_201710_04_2.jpg  img_201710_04_3.jpg

三つの執筆動機

『守教』には三つの執筆動機があったとです。

 ひとつめは、久留米藩三部作を完結させたか、というこつです。私の生まれ育った地でもある筑後を舞台にした歴史小説を、これまで『水神』、『天に星 地に花』と二作書いとります。この『守教』が三作目にあたるとです。ひとつひとつ、独立した物語で、前のふたつを読んでいないと『守教』が理解できん、というわけではありまっせん。安心してよかです。

 戦国時代から江戸時代を舞台にした小説やドラマはようけありますばってん、キリシタン、あるいは隠れキリシタンについて描かれてこなかった部分が多かとです。その空白部分を埋めたかった、ちいうのがふたつめの動機です。

 大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、小西行長、黒田孝高、小早川秀包と、戦国期から江戸初期にかけて、九州にはたくさんのキリシタン大名がおりました。かれらが活躍する姿を描いた歴史小説は数多くあるでしょうが、キリスト教に関する記述が薄かとです。非常に残念なこつです。

 海を渡って日本を訪れた宣教師、日本人の神父や修道士、そして同宿たちについても、無視されがちだったのではなかでっしょか。信者も、最高時には数十万人を超えていたとではなかでっしょか。間違いなく、あの時代、日本人はキリスト教に慣れ親しんでいたとです。それが、伴天連追放令や禁教令で消えてしもうた。その事実ば知っておく必要があるのではなかでっしょか。

 もちろん島原の乱であったり、宣教師の棄教であったりをテーマとして取り上げた小説はあります。ふつうの生活を送っとる百姓や庄屋たちが、キリスト教にどげんして出会い、受け入れ、それによって日常がどげんかわったのか。私は、今まであまり取り上げられてこなかったその部分ば、しっかりと書いておきたかったとです。

 もうひとつ、隠れキリシタンが福岡にもいたという事実を書き残しておきたかったとです。

 五島や天草、島原に隠れキリシタンがいたこつは知られとります。いまでいう大刀洗町、当時は今村とよばれとった場所に、隠れキリシタンがいたというこつは、福岡の人でんあまり知らんごたる。2017年は、今村信徒とよばるる隠れキリシタンたちが発見されて百五十周年にあたる年で、いろいろな行事も催されとります。その年に『守教』を刊行することになったのには、不思議な縁ば感じます。

 村の跡地には教会堂が建てられとります。大刀洗町といえば、『蠅の帝国 軍医たちの黙示録』にも書いとりますが、戦時中に大きな飛行場があった場所で、激しい空爆を受けました。しかし、教会堂は被害を免れたとです。私の故郷は今村の近くにある小郡で、子どものころには自転車でよく今村教会堂があるあたりを通っとりました。なんでこげな場所に、こげん立派な教会堂があるとじゃろか、と不思議に思っていたこつばいまでも覚えとります。古希に達して、やっとそん謎がとけました。

視点人物と宣教師

 1569年から江戸時代がおわる1867年までを『守教』では描いとります。視点人物ば誰にするか、ちいうのは悩みました。百姓たちの生活ば実体験として理解しつつ、村を訪れた宣教師たちとも交流があり、外で何が起こっとるかを知り得る立場の人物は誰か、と考えました。そして、大庄屋の一族という視点人物たちを思いついたとです。

 キリスト教ば棄てろという命令を役人から直接くだされ、棄てるべきか棄てずに隠れるべきか、これば決める立場でもあります。自分の信仰のことだけではなく、村人たちの命のことも勘案せんといかん。これは、苦しかったとじゃなかでっしょか。まわりの村は次々に棄教し、拷問の話もどんどん入ってくる。このまま信じ続けることが本当に良かこつか。隠れると決めたものの、それは本当に正しいこつなのか。もし私が大庄屋だったらいったいどげんするだろうかと、書きながら悩みました。

 終盤では大庄屋の一族から、百姓に視点人物が移動します。隠れることが当たり前に、いいかえればその村で暮らすこと=信仰していることが当たり前になっている時代に、村の外から、同じ神ば信じている人間が訪ねてきたら、どげん反応するのか。もしかしたら、嘘をついとるのかもしれん。罠かもしれん。そげんやって苦悩する百姓の姿ば描きたかったとです。

 調べていて驚いたとは、宣教師たちがあちらこちらと、移動しているこつでした。たとえばアルメイダ神父は「生ける車輪」(viva roda)とよばれるくらいにずっと動きつづけとります。迫害から逃れるため、というのもその理由のひとつでっしょが、それだけじゃなかったとじゃなかでっしょか。まだ残っとる信者を見捨てんために、飛び回っていたのではなかかと思います。あそこにまだ信者がいるときけば、その場所に行ったとです。

 千々石ミゲルが棄教していたこと、語学の才能に長けた原マルチノがマカオで生涯を終えたこと、伊東マンショが早世していたこと。中浦ジュリアンが、棄教した司祭として遠藤周作さんの『沈黙』にも出てくるフェレイラと一緒に、穴吊るしの刑にあったこと。よく知られているとは言い難い天正遣欧少年使節四人の後半生を描けたこつも、うれしかったですね。エルサレムまでいったペドロ岐部を描けたこつも、ばさろうれしかった。中浦ジュリアンやペドロ岐部の覚悟や心意気を記述できただけでも、『守教』を書いた甲斐があったのかもしれん。そげん思います。

キリシタンから隠れキリシタンへ

 百姓たちにとって、キリスト教の教えは支えになったでっしょね。貧しい者は救わんといけん、病気の人ば排斥してはいけん。勤勉であることはよかこつであり、ドミンゴの日は休む。この教えを守っとれば間違いなかと、そげん考えたからこそ、どんどんキリスト教が浸透していった。妾を持ってはいかんという教えも、女性たちには魅力的な考えじゃったと思います。キリシタン大名たちも、先に奥さんの方が入信した例がありますけんね。

 宣教師が村にやってきたときに百姓たちが喜ぶ姿も描いとりますが、本当にうれしかったでっしょねぇ。苦しか農作業が終わったあと、手作りのロザリオを片手に、本物の神父と一緒に祈る。「マリア」や「クララ」といった洗礼名を与えられ、宣教師たちが村を去った後も信じ続ける。夕暮れに百姓たちが祈りを捧げとる姿を書きながら、これはミレーの『晩鐘』そのものではなかか、と思い当たりました。

 それが、上から押さえつけられるかたちで、今日からキリスト教ば信じてはならんといわれ、はいわかりました、と簡単に棄てることはできんでっしょ。

 そこで、よくこげな残酷なこつを思いついたな、と驚くほどの拷問をやるわけです。キリスト教ば棄てんと、こげな酷い目にあうぞ、と見せつける。少なくとも国内で四千人は殉教しとります。世界で一番殉教が多かった国が日本です。もしかしたらその事実が、後遺症のように残っていて、歴史小説やドラマを作る時に、キリスト教についてはあまり触れんごつ、作り手に思わせとるのかもしれまっせん。戦国時代から江戸初期にかけての九州の覇権争いについて、今作ではかなり詳しく書いとります。キリスト教ば抜きにしてその争いを描くこつは相当に難しかと私は感じました。戦のときに、ロザリオを首から下げて戦った者たちもおったでっしょ。葬儀をキリスト教式でやった大名もおる。領地の首領がキリスト教に対して寛容か厳しいかによって、領民たちも右往左往するはめになります。いつの時代も、政治が民衆に与える影響は大きかと改めて気づかされました。

 江戸時代が終わるまで隠れつづけた今村信徒たちのことを想像すると、信じていることを隠すというのは、やはりつらかったろうなと思います。疑念ば抱かれんごつ、一生懸命農作業をし、ひっそりと祈る。なんで隠れんといかんのかと思った村人もおったでしょう。それでも、ほかの村人たちのために、隠れることば選び続けた。周りの村には、今村のことを疑っていた者もおったはずです。寺の住職やもしかしたら役人にも、あの村は怪しいと考えとった者がおったかもしれまっせん。ばってんここは、訴え出てつぶしてしまうよりも、目立たないのであれば、あの村のこつは見て見ぬふりをした方がよかと判断させる真面目さが、今村にはあったのではなかでっしょか。

次作について

 昨年は『守教』ば書くためにキリスト教について調べ、今年になってからはずっと、日蓮宗について調べとります。来年刊行予定の小説『襲来』が、元寇を題材にしたもので、日蓮を無視して書くことができんからです。その次は「森田療法」の創始者である森田正馬の伝記、また次はいよいよサリンです。それ以降のテーマも二、三作決まっとります。資料を集め始めているところです。年に一作のペースでひとつずつ仕上げていきたいと願っています。

 (ははきぎ・ほうせい 作家)

最新のインタビュー

ページの先頭へ