書評

2017年10月号掲載

百貨店の母と呼ばれる女傑の物語

――玉岡かおる『花になるらん 明治おんな繁盛記』

東えりか

対象書籍名:『花になるらん 明治おんな繁盛記』
対象著者:玉岡かおる
対象書籍ISBN:978-4-10-129624-1

 明治三十五年十月吉日、京都の貿易商「高倉屋」の四代目当主勢田義市は、母・みやびの古稀の祝いを新しく建てた伏見の別荘で賑々しく開催した。日頃高倉屋と親しい取引先はもちろん、近隣の知己や地元の財界人、政治家、名のある文人、画家など百十人もが集い、主賓には元内閣総理大臣の山縣有朋が招かれていた。
 山縣は「雅楽山荘」と名付けられたこの屋敷の揮毫を約束し、宴の主みやびは「古来稀なる」年齢となったことを懐かしむ。
――峨々として 古来まれなる道を生き、......
 みやびが歌を一首吟じようとするとき、下の句に浮かぶ数々の思い出は彼女の一生を表す言葉でなくてはならない。本書の冒頭十数ページで私はこの物語の魅力に捉えられた。
『お家さん』『天涯の船』『銀のみち一条』など女性の一代記の傑作を著した玉岡かおるが、百貨店の母ともいえる女傑の物語を上梓した。
 NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルとなった女性実業家の広岡浅子、女性として初のアメリカ留学生となり女子教育に力を注いだ津田梅子、同じくアメリカに留学し鹿鳴館の花として外交に努めた大山捨松などと肩を並べて活躍したのが、老舗のデパート高島屋の創生期を担った「飯田歌」である。
 本書の主人公、勢田雅はこの飯田歌をモデルにして、明治の京都を舞台に日本の伝統芸術を守り、その価値を海外に認めさせた人々の奮闘の記録を描いていく。
 みやびの父信兵衛(初代義市)が母ヒデとともに始めた呉服古着屋「高倉屋」は、婿養子である哲太郎(二代目義市)の努力で江戸時代から先行する老舗から一目置かれる大店となった。
 父親に「みやび」という名前はどういう文字を書くのかと尋ねたところ「雅楽」の"雅"だと教えられた。人には「うちの名前のみやびの漢字は"ガガッ"のガなんや」と教えていたことで"ががはん"と呼ばれた娘は、その名の通りガガッと力みなぎる女性となり、夫を助け息子たちを立派に育て上げた上、高倉屋の商売を海外にまで飛躍させていく。
 幕末の蛤御門の変で「どんどん焼け」と言われる京都の大火に見舞われたときも、夫とともに八面六臂の活躍をして高倉屋を支え、大政奉還後、東京に行幸した明治天皇を追って皇后までもが京都を去り、宮中の人びとや主だった公家、使用人たちのいなくなった京都は寂れるばかりだった。
 そこに人を集めたのが京都博覧会だ。最初は組合の出品のみだった高倉屋も、回数を重ねるごとに盛況さを増す博覧会に力をいれ、みやびの知恵で始まった祇園への名入り提灯で高倉屋の存在はまた一つ大きなものとなっていく。京都の町で商人の子として生まれ育ったみやびには、賑わいを戻すために何をしたらいいかがよく見えていたのだ。
 大店のお家さんとして上品に収まりかえってはいられない"ががはん"のバイタリティは、現代のキャリアウーマンたちが求めている理想に近いのかもしれない。男性と肩を並べつつ、女性でしか見えないものを商売につなげる。鎖国が解け世界から人々が日本に来て、貿易不均衡のなかで、男尊女卑が当たり前の時代になんとか日本人の矜持を守り発展させようという気概は、女性の方が発想は自由で卑屈にならず、堂々としていたと思う。世間の柵(しがらみ)に捕らわれずに、思い通りに商売に邁進できたみやびの姿は清々しい。
 モデルになった高島屋の歴史にもアメリカの商社スミス・ベーカー商会が来店し、帛紗を大量に購入していったという記述がある。工業化で衰退していく職人芸を保護し、現在に伝えた功績は大きい。ジャポニズムを愛し憧れて京都を闊歩する外国人観光客の姿を見たら、みやびはどうするだろう。傍若無人の振る舞いの人たちには、玉岡かおるの遊び心である「イイーだ」という必殺技を披露してくれるかもしれない。

 (あづま・えりか 書評家)

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