書評
2017年11月号掲載
活字を漏らさず味わう「妄想セックス」
――花房観音『くちびる遊び』(新潮文庫)
対象書籍名:『くちびる遊び』(新潮文庫)
対象著者:花房観音
対象書籍ISBN:978-4-10-120582-3
私は花房観音のファン第一号である。
花房観音の作品を初めて手にしたのは、彼女のデビュー作でもある「花祀り」の原稿であった。
イラストレーターとして、第一回・団鬼六賞の大賞受賞作の装画を担当することになり、まだ製本されていないゲラの状態であった「花祀り」を拝受した。編集者との打ち合わせの帰り道、電車の中で原稿を読み始めてからすぐに花房観音の世界に引き込まれてしまい、一晩かけて読み終えた。
京都を舞台にしたその作品は、文芸的な匂いを放ちながらも「エロい」官能小説として成立している。選考委員長でもあった団鬼六氏の名を掲げた賞にふさわしく、気品と逞しさを漂わせた花房観音の世界に初めて触れたその夜は、とんでもない新人が誕生したものだと夜中にひとり高揚したことを今でも覚えている。
私は花房観音の底知れぬ渇望感がとても好きだ。愛する男を飲み込みそうなほど醜態を晒すセックス描写や、内に秘めた闇を露わにする作品の数々に憧れる同性ファンも多いのではないだろうか。花房観音は、私たち女が「女だから」という不透明な理由で口を噤んでいる、タブー視されていた事柄をまざまざと作品中で表現している。
女が官能小説を書くことはかなりハードルが高いと私は感じている。男であれば定期的に「排出」をしなければ生きていけないので、衰えこそしても一生性欲と付き合っていかなければならない。そのために男の官能小説家は「抜く」ことを前提とした官能小説を書くことに長けている。
一方、女にとっての性欲は、男とは少々異なり、厄介だ。女は肉体的に性欲を感じる周期が存在するし、第一に女が「セックスが好きだ」と声に出して言える世の中でもない。
セックスを書くことを生業にするのならば、言うなれば毎日セックスのことを考え、毎日セックスと向き合い、毎日セックスを書き続けなければならない――我々が考えている以上に女がセックスを書くことは、覚悟が要る作業なのだ。
しかし花房観音は2010年にデビューしてから現在まで、毎日のようにセックスを書き続けている。「私はセックスが好きだ」と堂々と公言している一貫した彼女の作品スタイルは、なかなか真似できるものではない。それは彼女が幼い頃から「いやらしいこと」への探究心が強かったからこそ為せることではないだろうか。
本作『くちびる遊び』は、花房観音自身が幼い頃に読み漁った近代文学を代表する文豪たちが書いた作品を本歌取りし、新たに官能小説に仕上げた文豪官能短編集だ。前作『花びらめくり』に続く第二弾である。
森鴎外や与謝野晶子、太宰治などの馴染み深い文豪たちの作品も、花房観音の手にかかればものの見事に隠されたいやらしさが解き放たれてしまう。肩肘張って名作を読み「読書家」を気取る人々を横目に、今も昔も男も女も、愛を求めたその先にはセックスがあり、このセックスという行為が人を狂わせ、翻弄し、"物語"を生んできたということを示すのだ。
そもそも本作の核となる文豪たちの作品が発表された時代は「妄想するセックス」が今より楽しまれていただろう。
現代のようにインターネットで検索すればすぐにアダルトビデオが観られたり、はたまたVRなど最新機器で目の前に相手がいるかのように楽しめたりする時代ではない。人々はあらゆるものから性を妄想し、脳内で擬似セックスを楽しんでいたはずだ。それこそ文豪たちが発表する活字を頭の中で変換し、性を楽しむというもどかしさは、現代にはなかなか存在しない「創造するエロ」という快楽を与えていただろう。それを追い求めてみせたのが本作だ。
一般的にセックスは、男性器を女性器に挿入する行為だが、官能小説の面白さは、その行為に至るまで無限のストーリーを見せられるところにある。
この人と人とが一糸まとわぬ姿で行う獣のような行為に翻弄される、人としてのばかばかしさや面白さを、花房観音はあらゆる視点から表現している。本作を読むと、セックスの話を恥ずべきことと避けてきた女たちは悔しく思うだろう。誰にとってもセックスは面白いものなのだと、自ずと気づかされてしまうのだ。
想像する間もなくエロが手に入るこの時代に、想像がもたらす豊かないやらしさを、誰にも遠慮せず自由に堪能いただきたい。これが花房観音ファン第一号からの願いである。
(いしい・のりえ イラストレーター、ライター)