書評

2017年12月号掲載

世界の名作と共鳴する現代医療の真実と嘘

――久坂部羊『カネと共に去りぬ』

東えりか

カミュ、カフカ、ドストエフスキー―――
世界文学の金字塔が再臨! 医療小説の旗手が、時にシニカル、時にユーモラスに、医療の本質を鋭く抉る。
驚天動地の異色短編集!

対象書籍名:『カネと共に去りぬ』
対象著者:久坂部羊
対象書籍ISBN:978-4-10-120343-0

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 最近話題になる医療問題の一つに、技術の発達と倫理観とのギャップがある。遺伝子治療や臓器移植、あるいはガン治療における新しい発見、終末医療のあり方など、医療の最先端は日進月歩だが、そのまますぐに現場に生かせるわけではない。もし治療が可能だとしても、その方法が医師である前に人間として許されることなのか、という葛藤にもぶちあたる。「出来ること」と「していいこと」の線引きは難しい。
 病気との付き合い方も変わってきた。今までの医療は生き長らえさせることを大目標としてきたが、いまはいかに幸せな生活を送れるか、いわゆるクオリティ・オブ・ライフに重心が移っている。インフォームド・コンセントが徹底されてきたことで、本人の希望を最優先として家族や周囲の人たちの意見も取り入れ、「生き方」を選択できるようになってきた。
 だがどんなことにも本音と建前がある。医師たちの本音、患者の本音、家族の本音。それぞれの本音が上手く合致し、治療に有効に働けばいいのだが、残念ながら誰かの本音がないがしろにされ我慢を強いられることが多いと思う。
 さて久坂部羊の新刊『カネと共に去りぬ』は、まさに本音のオンパレード。2014年に上梓された『芥川症』(新潮文庫)では芥川龍之介の名作短篇を下敷きに、医療現場の現実をブラックパロディ小説に仕立て上げたが、今回はそれを世界の名作小説に広げている。ブラック度、シニカル度もさらにアップさせ、ニヤニヤ笑って読み進むうちに、ふっと首筋が寒くなる、そんな作品集だ。
「医呆人」の冒頭は"今日、患者が死んだ"。患者の苗字は真万(ママン)さん、といえば、そう、カミュのあの作品。研修医上がりの新米医師が、最初に看取った患者に対して、誠実に対応したことで起こる病院のあるある話だ。「最近の新入社員は......」とお嘆きのサラリーマンはどう読むだろう。
「地下室のカルテ」はドストエフスキーの名作を借りている。ただし閉じこもっているのは小官吏ならぬうつ病医師。閉じこもっているのは地下の霊安室のとなりの小部屋だ。だがもう一度納得のいく医療をしようと精いっぱい努めた結果は果たして......。
「予告された安楽死の記録」はガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』のパロディだが、安楽死を願い、声を上げる人が増えてきた日本では、早晩起こりうる問題だろう。
「アルジャーノンにギロチンを」は穏やかでないタイトルだが、知能が衰えていく恐怖は老人たちにとって他人ごとではないだろう。ひらがなの日記が哀しい。
「吾輩はイヌである」は言わずと知れた夏目漱石の物語。ネコはいつの世も気ままだが、実験動物の、それも気立てのいいビーグル犬だからこそ、動物の方が人間に気を使う。
「変心」は朝起きたら、心が毒虫のように変容した寒座久礼子(さむざくれこ)という外科医の葛藤。良い医師であることに執着したあげく、心が悪魔に魅入られた結果はどうなるか。
 そして最後の「カネと共に去りぬ」は高級老人ホーム〈アトランティス奥多摩〉を舞台に、資産家達の老いらくの恋を描いていく。今年評判になったテレビドラマ「やすらぎの郷」を彷彿とさせ、人生の最後の楽しみを想う。
 現役の医師であり、訪問医療の最前線に今も身を置く久坂部羊のブラックな本音が炸裂する。それにしても原作のカラーを残したまま、よくこんなことを思いついた、と感心する。人間はタフでなければ生きていけないし、優しすぎると苦しむばかり。うまく折り合って生きていきたいものだ。

 (あづま・えりか 書評家)

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