書評
2018年1月号掲載
若き日の道へ
――森内俊雄『道の向こうの道』
対象書籍名:『道の向こうの道』
対象著者:森内俊雄
対象書籍ISBN:978-4-10-321605-6
一九五六年から四年間、大学生だったときのことを回想する連作六編を収めたものだ。ほぼ一年に一作のペースで文芸誌「新潮」に発表された。「飛行機は南へ飛んで行く」「たまさかに人のかたちにあらはれて」「赤い風船」「今日は昨日の明日」「二進も三進も」「道の向こうの道」が、それぞれの題だが、一編の長編としても読むことができる。
ページをたどっていくと、大学の級友、先生、下宿先の人、そして郷里大阪の友人や家族も顔を出す。それらおおぜいの人たちとともに、四年間の物語が進んでいくのだ。休暇のときには帰省するし、ときには日本各地へ旅をする。それも学生の時期ならではの思い出である。
もちろんこのような体験をしたのは著者であり、読む人は無関係なのだが、読みすすめるうちに、この小説のなかのできごとや風景がとても身近に感じられるのが楽しい。どの場面もていねいに書かれているけれど、この世の中は不思議なこともあるので、ていねいに書きようがないこともある。そこもまた面白い。
たとえば、同じクラスの仲間の話。親のほうをたどっていくと、そこにも世界がある。そこでこれまで知らないことを知る。またクラスには、ときおり有名な人の息子や娘がいるものだ。ある日、級友の「田中にそそのかされて」同じクラスの杉野弥生子の家を訪ねる。彼女の父は経済学者。
「杉野弥生子が応対に出てきて、客間に案内した。そこで緊張して待っていると、襖がそっと開いて彼女がラジオを抱えてはいってきた。そして、茶を供するように、それを置いたきり二度と姿を見せなかった。そのあとのことは酒の一気飲みをやったかのように、いっさい記憶にない。」
これはなんだったのだろう、という光景である。いまも筆を尽くせないところに、ほんとうの思い出があるのだ。それが学生の時間なのである。
杉野弥生子だけではない。ほかの級友や、高校時代の同級生なども含めて多数の人名が出るが、それらのほとんどは実名である。いま引いた一節の前文に「例外はあるものだが、おおむね男子学生こぞって、杉野弥生子の一挙手一投足に注目した。白取貞樹、植草行雄、田中一生、李恢成しかり、わたしもその一人である」とあるように。
著者は「赤い風船」のなかで、実名を出して書いていることについて記す。「実際、姓名は尊い。そのままで唯一、掛け替えのない人格、それ自体が生そのものである。その姓名の力をこそ借りて、はじめて書き得る世界、境遇がある」。むろんそこには必要な配慮はあるのだが、実名ならではのよさが感じとれる。その人たちのようすをつないでいくうちに、若き日の道をともに歩いたときのことが、著者だけではなく、こちらにも近しいもの、いとおしいものに感じられてくるのだ。それがこの作品を読むときのよろこびである。
人の姓名と同じように、書物の名前も同様である。伏せる必要はないのだ。これはあたりまえすぎて、普段意識しないが、大切なことであると思う。
あちらこちらに、その頃に読んだ詩歌や哲学の書物が「実名」で出てくる。この作品は、読書の記録でもあるのだ。
伊東静雄の詩がいつも心のなかにあるようで、その詩のことばが随所に登場する。室生犀星の詩句もしかり。風景や自分の気持ちに合わせて、ふと文学作品の一節が浮かぶこともしばしば。ときには人を形容するときにも使われる。ある級友を語るところでは「木下夕爾の詩集から抜け出てきたかのような甘い風貌で」とある。「この季節、暖房は「ゆきゆきて ここに ゆきゆく夏野(なつの)かな 蕪村(ぶそん)」の世界を開いていた」。詩歌だけではない。信号待ちのとき、駅の平屋屋根の反りをみて「荘子」の冒頭の一節を思い出すこともある。
どのようにして学生時代を過ごしたかは、どのようなものを読んだかということと深く結びつく。そんな時代の学生の心の世界がここにはひろがっているのだ。多くの書物を知っただけではない。読みおえたあともそれを灯りにしていた。大切にして生きてきた。そのしるしなのだ。その情景も、かけがえのないものである。
(あらかわ・ようじ 現代詩作家)