書評
2018年3月号掲載
思いがけない記憶が蘇る
――中島京子『樽とタタン』
対象書籍名:『樽とタタン』
対象著者:中島京子
対象書籍ISBN:978-4-10-102231-4
昔から営業していて、コーヒーやタバコのニオイが壁や天井に染み込んでいる喫茶店が好きだ。地方に行ったりすると、時間が少しでもあれば、そのような店に立ち寄ってしまう。コーヒーは美味しくても不味くても構わない。美味しいに越したことはないけれど、煮詰めて酸っぱくなったコーヒーを不機嫌な爺さんが出してくるようなところでも良い。
この前、北九州の小倉で入った喫茶店は、ダミ声の婆さんが煙草を吸いながら、大きな声で人の悪口を言いまくっているのが店内に響いていたが、それはそれで楽しかった。
いまは少なくなってしまったけれど、都心でも昔は、どんな駅前にも必ず喫茶店があった。人と待ち合わせしているとき、早く着いてしまったら、喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら時間を潰すことができた。店には大概、常連客がいて、マスターと話していたり、客同士で話しているのが耳に入ってきて、それを聞いていると、なんとなく町の様相がわかったりするのだった。『樽とタタン』は、そのような喫茶店に入って、盗み聞きをしているような楽しさがある。
本書の主人公、女の子のタタンは、三歳から十二歳まで、ある小さな町に住んでいて、小学校のころから喫茶店に通っていた。このように書くとなんだか不良少女のようだが、タタンの両親は共働きだったので、保育所代わりに預けられていた。しかしマスターはものすごく面倒見がいいわけではない。無口で、タタンを放っておいている感じだが、彼女もそれが心地よく、勝手にやっているのだった。タタンのお気に入りの場所は、コーヒー豆が入っていた大きな樽の中だ。その樽は、店の装飾になっていて、赤いペンキが塗られ、真ん丸に穴がくり抜かれている。タタンは、この中で、うつらうつらしたり、いろいろ妄想したりと、まるで猫のように過ごしている。
あるとき、樽の中にいたタタンに、白いひげのおじいさんが話しかける。おじいさんは小説家で、この店の常連客だ。タタンというあだ名をつけたのもこの人だ。彼は性格にムラがあるが、タタンと絶妙な距離感で付きあい、仲良しになる。他にも、声の甲高い神主とか女癖の悪い歌舞伎役者の卵、大学の相撲部の連中、黙々とコーヒーを飲む学者などがいる。一方で、常連は少しずつ入れ替わり、タタンは、そのような移ろいを十二歳までのぞいてきた。そして大人になって思い返すと、常連客よりも、ちょっと気のおかしくなってしまった女性や、癖のある学生さんなど、ある日突然やって来た人の方が、強い印象を残していたりする。
ひとつひとつのエピソードは、読者を、タタンのいる喫茶店の片隅でコーヒーを飲んでいるような気分にさせてくれる。コーヒーの味は、しつこくなく、淡々としていて、ユニークだ。本を閉じると、自分の過去のことや、これからのことが頭に浮かんでくるだろう。
本書を読んでいたら、わたしもタタンと同じように喫茶店に預けられていたことを思い出した。そこは祖父の営んでいた八百屋の二階の喫茶店で、ノジマさんという若ハゲのマスターがいた。わたしは母が買い物に行っている間など、よく預けられていた。そしてホットサンドを食べカルピスを飲み、大人の会話を聞いていた。さらに本書の中にも出てくる、インベーダーゲームが喫茶店に置かれたときは、皆んな興奮していたのを覚えている。結局、ゲームが一番上手くなったのは、マスターのノジマさんだった。彼は、仕事そっちのけで、インベーダーゲームにのめり込んでいたのだ。
タタンとおばあちゃんの交流を描いた、『ぱっと消えてぴっと入る』という篇で、「死んだ者は、ぱっと消えて、生きてるものの中に、ぴっと入ってくる」とおばあちゃんは言う。ノジマさんのことも、わたしの中にぴっと入っていて、本書を読んでいたら、蘇ってきたようだ。
またタタンのいた喫茶店に来ていた人々は、「独特のひとりぼっち感を漂わせていた」とあるのだが、自分が古い喫茶店を探してしまうのは、そのような気分を味わうためなのかもしれない。
(いぬい・あきと 作家)