書評
2018年3月号掲載
文学よりはるか以前の裸の問い
――前田英樹『批評の魂』
対象書籍名:『批評の魂』
対象著者:前田英樹
対象書籍ISBN:978-4-10-351551-7
人生はボードレールの一行に如かず、という芥川龍之介のアフォリズムがある。思うにまかせぬ現実を転覆したくてうずうずしていた田舎の高校生の私に、この箴言は大きな翼を与えてくれた。私は無邪気にも観念世界の絶対優越を信じ、文学から哲学へ、哲学から宗教へ、ふらふらと渡り歩く数年間をすごすことになった。ふりかえるとそれは、拗ねと甘えと逃避と誤読に充ちみちた、幼くも危うい数年間だった。
その毒多き芥川の箴言を真っ向から否定しきった男がいる。正宗白鳥。彼はいう。ボードレールの百行も実人生の一日に如かず、と。文学者仲間でこんな発言をすることがどれほどの勇気を要するか、想像がつこう。学生時代の私なら、白鳥の言の凡俗ぶりを鼻先で笑っただろう。しかし、五十半ばを越えた今、その凡俗ならざる重みにうなだれるしかない自分がいる。
白鳥は作家であったが、それ以上に批評家であった。その証拠に、彼自身が領袖のひとりと世間から目されていた自然主義文学を、主著『自然主義盛衰史』で次のように括ってみせる。「凡庸人の艱難苦悶を直写した」日本の自然主義文学は、「貧寒なる文学、愚かなる迷へる文学」として「世界文学史に類例のない一種特別のもの」で、それは「必ずしも秀れた意味で例のないのではなく、『自縄自縛でじたばたする愚か物』と、傍観者に見られるやうな意味で例がないとも云へるのである」。この仮借ない他者の目は、批評家の目以外の何だろう。
彼はこんな発言もしている。「まあ、小説なんていうものはどうでもいいな。どうでもいいようなもんだ。人間が生きていくのにね。僕は『徒然草』の愛読者だけど、何でも僕はそのままに読むからな。『徒然草』はそのままにつれづれに読む。小林君のように大袈裟に考えては読まない」。
小林君とは小林秀雄、昭和二十三年の対談での一齣。小林と白鳥とのかかわりは深く、昭和十一年にはふたりで「思想と実生活論争」を起こしたし、小林の絶筆は「正宗白鳥の作について」であった。
小説なんてどうでもいい、と吐き棄てる大作家。ならば逆に彼にとって、「どうでもよくないもの」とは何だったのか? おそらくそれは、身ひとつの生を如何に生きるべきかという、文学よりはるか以前の裸の問いであった。その問いが彼を文学より先に宗教へ近づけさせた。十三歳でキリスト教と出逢い、十八歳で洗礼を受け、二十二歳で教団から離れた。教団から離れたことは信仰から離れたことを意味しない。以後、彼は孤独に信仰をはぐくみ、精神に懐疑の筋金を通さざるをえなくなった。白鳥の批評には信仰が秘められている、と前田英樹は断言する。「教会を疑い、聖書を疑い、キリストを疑ってさえなお消えることのない信仰の埋もれ火――自分にものを書かせ、生きることをやめさせない働きの根源がここにあることを、白鳥は語らなかった。そのことを隠した。あからさまにしてしまえば、火は燃え尽き、その働きは消え去るからだ」。
キリスト教を棄てたキリスト者、文学という観念を毛筋ほども信じることのない文学批評者がついに秘して語らなかったもの、それが白鳥の文学を世間一般で文学と呼びならわされているものよりひとまわり大きなものにしてみせた。そして、「『現実の暗黒』に蠢く卑小な、惨憺たる人間のうちに、底知れず偉大なものからの沈黙の呼びかけを聴き取」る文学を実現させた、と前田は書く。
実をいうと、本書は正宗白鳥論ではないし、白鳥の評伝でもない。もうひとまわり、ふたまわり、大きな構えを持つ批評である。著者は小林秀雄・正宗白鳥・河上徹太郎を三幅対とし、この三人が格闘したドストエフスキー・トルストイ・本居宣長・西行・内村鑑三・島崎藤村・吉田松陰・河上肇らを合わせ鏡にするという複雑巧緻な仕掛けをほどこした。そして、輪舞のごとく三幅対を自在に行き来し、ゆるやかに円環を閉じてみせる。これほど文芸的に美しい文芸批評を近年、私は読んだ記憶がない。
小林秀雄は昭和二十一年の座談「コメディ・リテレール」で、「トルストイ、ドストイエフスキイは一流です。......要するに同じ魂なんだね。何か深いアナロジーを感じるのだよ」と語った。河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』以後、「系譜」という語を好んで使った。ふたりに倣うならば、本書は、深いアナロジーでつながれた同じ批評の魂の系譜である。
(みわ・たろう 作家)