書評
2018年4月号掲載
苦戦を強いられる現代人への応援歌
――武内涼『敗れども負けず』
対象書籍名:『敗れども負けず』
対象著者:武内涼
対象書籍ISBN:978-4-10-101552-1
高校生の時に出会った鮮烈な文章に「人生に(もしくは、人間に、だったか)不可能はない」というものがあった。人は強く望めば何でもできる。望みが叶うように努力するのは当然。ポストが欲しければ前任者を陥れれば良いし、宝物を手に入れたければ盗めば良い。道徳を踏み外したり法に触れるのを怖れるのは、望みが微弱だからに他ならない、と説く。 犯罪のすすめでは断じてない。文章を書いた人(国語テストの問題文だったので誰かは知らない)の真意は、生まれた家が、学歴が、時代がどうの等の弱音をはくのではなく、自分の人生を主体的に、力強く生きるべし、ということだろう。
一方で、本多忠勝(ほんだただかつ)の「真の武士とは」の定義も印象的だ。平八郎忠勝といえば徳川家の「武」の象徴で、百戦錬磨の勇者である。戦場では一歩も引くなとか、大将の首だけを狙えとか勇ましいことを言うのかと思いきや、「主君が城を枕に討ち死にするとき、何も言わずにつきあってやる。それがまことの武士であり、家臣だ」というのだ。
時は戦国の世。どんなにがんばっても、人間一人の能力はたかがしれている。失敗して、うまくいかなくて、死なねばならぬ時もあるだろう。そこをよく弁(わきま)え、主人の最期に黙って寄り添う。それが勇者・本多忠勝流の「武士=家臣の本分」なのだ。
右の二つは、正反対の内容にも見える。だが実は、ともに「人間を取り巻く環境の力は圧倒的で、個人が思いの通りに生きていくのは困難きわまりない」という認識を前提としている。私たちは自分の望みを叶えるために、環境と格闘しなくてはならない。その戦いはつらく、苦しい。環境をねじ伏せ、成功を手にできる人は一握りであるのが現実だ。
本書が取り上げる上杉憲政(うえすぎのりまさ)、板額御前(はんがくごぜん)、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、足利春王丸(あしかがはるおうまる)・安王丸(やすおうまる)、貞暁(じょうぎょう)法印。みんな環境との戦いに「敗(やぶ)れた」人ばかりだ。憲政は後北条氏の攻勢を受けて、愛息は斬られ、自身は本拠である上野・平井(ひらい)城を追われた。板額は鎌倉幕府に受け入れられず、思い人の城長茂(じょうながもち)を失い、自身も絶望的な籠城を強いられた。隆信は、この人だけは他にやりようがあったろうと思わせるのだが、戦国随一の戦上手と謳(うた)われる島津家久(しまづいえひさ)との激闘に倒れた。春王丸・安王丸は強権をふるう将軍・足利義教(よしのり)に異議を申し立てて滅んだ。貞暁法印は源頼朝の実子でありながら、幕府の将軍に任じられることがなかった。
彼らを弁護することはできないのだろうか。いや、そんなことは断じてない。憲政は良くも悪くも、私たちと同じ「普通の」人間だった。だから、早雲(そううん)―氏綱(うじつな)―氏康(うじやす)と、優秀な当主が実績を重ねていく北条家に対抗することは困難を極めた。板額は女性ながらに弓の名手であったが、数十人で全国の武士を束ねる幕府にかなうはずがなかった。隆信は残忍だったが、父と祖父と一族を惨殺された彼の悲惨な少年時代を思えば、無理からぬところもある。春王丸・安王丸は十代になったばかりの子どもである。貞暁は、いやこの人は自己の人生を自身でつかみ取ったのだから、「敗れて」すらいないと考えるべきか。
彼らは「敗れて」はいるが、環境との苦しい戦いを戦い抜いた。作者・武内涼は共感をもって彼らの軌跡をあとづける。彼らはそれぞれに力を尽くしている。その力の総量が迫りくる環境と比べて足りなかったのだとしても、それはもはや個々人の責任とはいえまい。この意味で彼らは、「敗れ」はしても、「負けて」はいないのだ。
成功や得意を描く時代小説は数多い。だが、先にも述べたように、環境を屈服させることのできる人はごく僅(わず)かなのである。私たちと同様、飛び抜けた才能を持たぬ多くの人間はどこかで挫折し、脱落していく。勝ち続けるのは至難であり、特異例である。武内はそれをよくよく知っている。だから本書のごとき「優しい」小説が書けるのだ。
言い訳をせずに、主体的に生きようではないか。弱者は弱者なりに。へたはへたなりに。そうすれば残念ながら「敗れ」はしても、けっして「負けた」ことにはならないのだ。武内が描く歴史的な物語は、現代に生きる私たちの生への極上の応援歌である。
(ほんごう・かずと 東京大学教授)