書評
2018年8月号掲載
ただしいことと、ただしくないこと
――滝田愛美『この血の流れ着くところ』
対象書籍名:『この血の流れ着くところ』
対象著者:滝田愛美
対象書籍ISBN:978-4-10-350572-3
作者の滝田愛美さんは、第13回女による女のためのR‐18文学賞の読者賞を受賞した、『ただしくないひと、桜井さん』で二〇一六年にデビュー、本書は第二作にあたる。デビュー作にはその作家の全てがある、とはよく言われることだが、滝田さんの場合も然り。世の中には、ただしいこともあるし、ただしくないこともある。そして、何がただしくて、何がただしくないのか、その線引きはあくまでも個人的なことであり、誰かや世間から押し付けられたりすることでも、押し付けたりすることでもない。それが、滝田さんがデビュー作に込めた想いだ、と私は思う。
本書はその想いを、より進化・深化させた物語である。本書の中心にいるのは、礼子。夫・文也と一人娘・美衣礼(みいれ)とともに、タワーマンションの23階に住んでいる。夫からは浮気の気配を濃厚に感じとっているものの、そのことに対して、問い詰めたりアクションをとろうとは思っていなかった。だが、ある日、夫から買い換える車の色を黒とブルーのどちらにするかと聞かれた時、思わず口をついてでてしまう。「好きな人に相談したら」と。
出勤前だった文也は、怒りながらもそのまま出かけたのだが、酔っ払って帰宅後、6年ぶりに礼子を組み敷く。礼子は文也を受け入れることができず、拒んでしまう。自分を拒絶した礼子に、暴力をふるう文也。その夜を機に、礼子は美衣礼を連れて家を出る。二人が向かったのは、大阪にあるシングルマザー限定のシェアハウスだ。
実は礼子は、かつて「幕屋」という女性専用の民間のシェルターのような家で母親・律子と暮らしていた。「幕屋」を運営していたのは、施設で暮らす女たちから「先生」と呼ばれていた飯塚昭憲で、礼子はそこで大学進学のために上京するまで過ごしていた――。
と、こうやって、物語の外側をなぞっていても、本書の本質には近づけないので、ここから先の物語は実際に読んでいただきたい。
物語の核にあるのは、礼子とその母親、二人の関係で、その関係が今に至るも捻れたままでいることの根っこには、「性」の問題――幼い礼子が、自慰によって快感を得て、それに耽っていたことを母親から叱られたこと――がある。母娘関係の複雑さ、面倒臭さを描いた物語はこれまでにもあるが、そこに「性」を持ち込んだ作品、とりわけ女児・女子の「自慰」にフォーカスした物語は、本書が初めてだろう。
本書を読み解く鍵は、R‐18文学賞の読者賞を受賞した際のインタビューに答えた、滝田さんの言葉にある。
「それこそ、痴漢をされた女性は嫌がらなければいけないということだって、決めつけではないかと思うのです。もし、そこで少しでも性的な快楽を感じてしまったら、その子は後ろ指をさされなければいけないのでしょうか。痴漢は犯罪だし、犯罪者側の詭弁に使われるのは論外ですが、たとえ悪いことであったとしても、性的な快楽を感じてしまったことは事実であって、その子にだって救いがあってほしい。酷いことをされたと思わなかったが故に人には言えない苦しみを抱える人だっているんじゃないでしょうか」
「幕屋」で過ごす礼子は、やがて自分から飯塚を誘い、飯塚の指を使って自慰をするようになる。それは礼子の"意志"なのに、礼子の母親にとって、それは性的な虐待でしかない。自分の娘は「酷い目にあった」、というのが礼子の母親の認識なのだ。
こんなふうに書いてしまうと、なんだか辛くて救いのない物語に思えてしまうかもしれない。けれど、そうではないのだ。そこが凄い。礼子にも、礼子の母にも、光差す方向をほの見せているのだ。
「幕屋」で礼子たちとともに暮らしていた、展代と息子の太一の関係は、礼子と母親の母娘関係とはまた別方向で捻れており(太一は母からの束縛というか呪縛を嫌悪して、中卒後、独り立ちをする)、男児・女児問わず、母子関係の難しさを浮かび上がらせているあたりも巧い。さらに、その展代が物語終盤、律子に差し伸べる"手"がいい(このシーン、ちょっと映画の「テルマ&ルイーズ」みたいです)。
読後、自分のなかの「ただしい」「ただしくない」を、揺さぶってみて欲しい。本書はそのために書かれた一冊だと思う。