書評

2018年11月号掲載

大胆不敵・前代未聞の時代ノワール大作

――乾緑郎『見返り検校』

大森望

対象書籍名:『見返り検校』(新潮文庫改題『仇討ち検行』)
対象著者:乾緑郎
対象書籍ISBN:978-4-10-120794-0

 2010年、朝日時代小説大賞と『このミステリーがすごい!』大賞をほぼ同時期に受賞して華々しい作家デビューを飾って以来、乾緑郎は、ジャンルの壁を越えて幅広く活躍してきた。忍者活劇、幻想SF、現代ミステリ、家族ファンタジー、少年小説......。その最新長編『見返り検校』は、自身最長となる500ページ超の大作。「杉山検校」のタイトルで〈小説新潮〉に21回にわたって連載されたのち、加筆修正を経て単行本化された。
 題名の"見返り検校"とは、伊勢国安濃津生まれの鍼聖、杉山和一(すぎやまわいち)(1610年~1694年)のこと。細い筒に鍼を入れて施術する管鍼法の創始者であり、晩年には、徳川綱吉の庇護を受け、世界初の視覚障害者教育施設とも言われる鍼医養成所「杉山流鍼治導引稽古所」を創立した。綱吉から「何か望みはないか」と問われて、「一つでいいから目が欲しい」と答えたところ、本所一つ目(墨田区千歳)に広大な土地を与えられた――との逸話は有名。和一はこの敷地に稽古所を移し、多くの優秀な鍼医を育てたほか、江ノ島弁財天の分霊を勧請している(現在の江島杉山神社)。
 鍼灸師の世界では知らぬ者がないくらいの偉人なんだそうで、みずからも鍼灸師の資格とキャリアを持ち、鍼灸院ミステリ『鷹野鍼灸院の事件簿』シリーズを書いている著者にとっては、満を持して挑む題材ということか。
 杉山和一は武家の長男として生まれたが、幼少期に天然痘にかかり失明。家督を継げなくなったため、故郷を離れ、江戸の鍼術家・山瀬琢一(やませたくいち)に弟子入りする。しかし、物覚えが悪く、技術が一向に身につかないことから、ついに匙を投げられ、破門を言い渡されることに。その後、江ノ島弁財天の岩窟にこもって七日間の断食祈願を行ったところ、その結願(けちがん)の日、石につまずいて倒れた拍子に、たまたま筒状に丸くなった枯葉にくるまった松葉を拾い、これが管鍼法のヒントになった――という伝説がある。その真偽はともかく、和一はそれから鍼医として頭角を現し、やがては盲官の最高位にあたる検校にまで登りつめる。
 波乱に満ちた生涯はいかにも小説的だが、『見返り検校』が杉山和一の足跡を忠実にたどる歴史小説かというと、まったく違う。前述のエピソードや伝記的事実は作中にとりこまれているものの、それは本書を構成するブロックのひとつ。史実が思いがけない大仕掛けと合体し、小説は意外すぎる方向に舵を切る。あえて分類するなら、本書は大胆不敵・前代未聞の"時代ノワール"なのである。
 冒頭は、五百石積みの流人船。時は元禄六年(1693年)、杉山検校と縁があるらしい男が、みずから進んで島流しの身となり、八丈島を目指している。
 小説は、そこから一気に時代を遡り、伊賀生まれの武芸者・柘植定十郎(つげていじゅうろう)の物語を語りはじめる。時は1620年、ところは伊賀上野城。無足人・柘植善右衛門の息子・定十郎(十歳)は、演武会の最中に起きたある出来事によって、津藩の藩士・西嶋八兵衛に召し抱えられることとなる。数年後、八兵衛は元服した定十郎を連れて讃岐高松藩に赴任する。先代藩主が急死し、まだ十一歳の嫡男が高松藩主となったため、その外祖父にあたる津藩藩主・藤堂高虎が幕府から後見を命じられ、八兵衛をはじめとする数人が津藩から目付役として派遣されたのである。
 その高松藩は、先代の義弟を中心とする一門衆と、有力な外様家老たちの二派に分かれ、藩政そっちのけで派閥争いが続いていた。合理的な精神を持ち、洞察力に優れた八兵衛は、状況を冷静に観察し、高松藩の将来を見据えた手をひとつずつ打ってゆく。だが、その過程で予想外の事件が......。
 というわけで、八兵衛の緻密なプランの綻びから生じた刃傷沙汰が定十郎の運命を大きく狂わせ、さらには杉山和一の生涯をも左右することになる。
 権謀術数渦巻く高松藩の政争劇から、逃亡と復讐を核にしたノワールへと一気に転調するあたりは、まさに手に汗握るサスペンス。実在の人物を主役にした歴史小説でありながら、まったく先が読めないという離れ業をみごとに実現している。史実のピースを使って、見たこともない新しい絵柄を現出させる乾マジックには脱帽するしかない。500ページ超を一気に読ませる、いまだかつてない野心的な時代小説だ。

 (おおもり・のぞみ 書評家)

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