書評・エッセイ

2019年1月号掲載

吉川景都『さよならわたしのおかあさん』刊行記念特集

受け継がれていく「愛のバトン」

吉田伸子

対象書籍名:『さよならわたしのおかあさん』
対象著者:吉川景都
対象書籍ISBN:978-4-10-352171-6

 おかあさん、と呼ぶ人が私にはいなかった。
 就学前に家を出た母が正式に父と離婚したのは、私が小学六年生のころだったか。そこに至るまで、子どもだった私の目から見ても様々なことがありすぎて(主に母のことで)、そのことはこんなに大人になった今でも、私の中で消化できていないし、きっと消化できることはないのだとどこかで諦めてもいる。
 母が家を出るまでの記憶で、残っていることはほとんどない。おかあさん、と呼んでその胸に飛び込んだこともあっただろうに、おかあさん、と呼んで戯(おど)けてみせたこともあっただろうに、母がいなくなってからの時間が積み重なっていくうちに、写真が色褪せていくかのように、薄くぼやけてしまって思い出せない。思い出せないのか、思い出したくないのか、その境界さえあやふやになってしまっている。
 おかあさん、と呼ぶ人がいなかったことはずっとずっと私の"傷"だった。いや、だった、ではなくて、今でもそれは古傷のようにある。若かったころは、かさぶたになりかけたその傷をわざわざ自分で剥がしては、じゅくじゅくと流れるその血を見たりした。癒えない傷がある、というのは、どこかで私の免罪符だった。人間関係がうまくいかないことも、恋人と別れたことも、全部その傷のせいにできた。私にはおかあさんがいなかったから、どこか人格形成に問題があるのはしょうがない、と開き直ることでしか立ち直ることができなかった。
 傷は傷のまま消えないけれど、でもそれは私という人間を損なうものではない。私を損なっているのは私自身で、母とのことは関係ない。そんな当たり前のことに気付くのに、どれだけの時間がかかったことか。そのことに気付いてから、「母娘」がテーマの物語の読み方が変わった気がする。それまでは、自分にとって「母娘もの」はある意味で鬼門だった。過度に感情移入しないように意識して読んでいたため、読み終わると不必要にぐったりしていたのだ。馬鹿じゃなかろうか、と今では思えるけれど、その時はそういうふうにしかできなかった。
 今では「毒親」という言葉も認知され、親子関係には呪縛という側面があることも知られているし、親子だから必ずしも仲睦まじくあらねばならないわけではない、という認識も広まってきている。その家、その家ごとのベストな家族、というものはあっても、「理想の家族」などというものはない。ベストな家族、と書いてしまったが、何がベストなのか、もまた、その家族次第なのだ。
 本書は漫画家である吉川景都さんのエッセイ漫画だが、吉川さんの家族は、間違いなくベストな家族だ、と思う。末期癌である吉川さんの「おかあさん」の闘病とその旅立ちまでを描いたものなのだが、この「おかあさん」が本当に本当に素晴らしい。余命を限られた日々の中で、吉川さんの思い出に残る「おかあさん」はいつも笑顔なのだ。子育ての真っ最中でもある吉川さんは、自分の育児の日々を通して、「おかあさん」が自分にしてくれたことに、一つ、また一つと気付いていく。
 胸が詰まってしまったのは、「おかあさん」が吉川さんにことあるごとにかけていた言葉を読んだ時だ。打たれ弱くて泣き虫な吉川さんは、何かあると「おかあさん」に泣きつくのだが、その都度、「おかあさん」は大丈夫、乗り越えられる、と励まし、最後にこう言うのだ。「そういう風に育ててあるから」と。「そういう風に育ててある」、なんて優しくて慈しみに満ちた呪文であることか。「おかあさん」の命の砂時計は思いがけず早くに落ちてしまうことになったけれど、「おかあさん」は吉川さんの中にずっとある。
 本書は「母娘もの」の体裁をとってはいるが、テーマはもっと普遍的なものだ。それは、母から娘へ、娘からさらにその娘へ、息子へと受け継がれていく「命のバトン」「愛のバトン」なのである。本書を読んだ私たちも、そのバトンを落とさないように、大切な誰かに渡していければ、と思う。

 (よしだ・のぶこ 書評家)

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ