書評

2019年4月号掲載

言葉に握られている

――谷崎由依『藁の王』

小山田浩子

対象書籍名:『藁の王』
対象著者:谷崎由依
対象書籍ISBN:978-4-10-352371-0

 表題作「藁の王」の語り手は大学で創作を教えている小説家の「わたし」だ。家が遠いため夫とは別居中、学生が行き来する構内には緑が萌えている。「植物や景色なら、存分に見ることが許される。この場所で、ともするとわたしは学生のことを眺めすぎるのだった。」そこには森がある。「たかだか二十本程度の木がかたまっているにすぎない。学外に較べれば格段に緑が多いとはいっても、憩いの場所にすぎないものを森と呼ぶのはおおげさだろう。それでも夜には、そう思えた。群青色の夜空との継ぎめはまるくおおきな影となり、全容の知れないような印象を与えるのだった。」森を眺めるうち語り手は森の王の逸話を思い出す。フレイザーの『金枝篇』、翌日「わたし」は魚住エメルと袴田マリリという二人の学生がその本を貸し借りしているのに気づく。洗練された雰囲気で、他者への批判は鋭いが作品は書いてこないエメル。小説家志望で真面目に書いているマリリは垢抜けない。対照的にも見える二人の親しさを知った語り手の中に、過去が、「彼女」のことが蘇る。
 大学に入って書き始めた「わたし」に論理的で弁がたつ「彼女」が、文章を読ませて欲しいと近づいてくる。二人は親しくなる。「彼女」は「わたし」の文章を読み言葉を口にするが自分の文章はほとんど見せてくれぬまま、しかし自分もたくさん書いているのだと言う。大人でも子供でもない特別な時間を共に過ごし、一方的に読まれ「彼女」の言葉を聞くうち、「わたし」は自分の書くものに「彼女」の言葉の影響を感じるようになる。課題を出さないエメルのことを嘆く語り手にマリリは「エメルちゃん、たくさん書いてるんですよ。一行も読ませてもらえませんけど」とこともなげに言う。「わたし」はかつて「彼女」からようやく大量のノートを差し出されたときそれを読まなかった。読むことはその人生を負うことのようであまりに重そうで「いや、それ以上に、そこに書かれたものがわたしの書いてきたものに似通っていたら。」......「わたし」は逃げるように異性の恋人を作りそれから「彼女」に会っていない。「『でもずっと一緒にいたら、魚住さんの考えやなんかが入ってくるじゃない』/マリリはしばらく首をかしげていた。『駄目なんですか、それじゃ』」言葉を書くこと読むことで繋がっている二組の若い少女たちの姿は歪んだ鏡像のようだ。
「彼女」との過去は語り手の中で既に神話めいた何かになっている。言葉そのものが核となり繊細で豊穣な言葉を呼び言葉を生み絡みずれて嵌まりこみ迷路のように、深く沈め蓋をしてきたゆえにより深く醸成された物語がマリリとエメルによって刺激され蠢き始め、語り手が何かを「眺める」とき、言葉によって召喚された過去がいまと二重写しになり現実さえも変容させていく。小さい森が無数の言の葉を茂らせ語り手を追い詰める。書くことも教えることも行き詰まる。言葉に対し鋭敏であること、豊かな言葉の森を持つこと、そこに沈潜し自分だけの言葉世界を見てしまうこと、いずれも小説家として優れた資質で、一方それは学生に教えるにはあるいは平穏に過ごすには大きな枷にも見える。袋小路、このままではどこにも、と思っているとそこに一つの小さな道がある。「わたし」と「彼女」の歪んだ鏡像だったマリリとエメルはその道を歩き始める。「わたし」が自分と離れてゆく二人を眺め描写する言葉には絶望と、かすかな希望が滲んでいるように思える。
 やわらかな言葉で語られるのに恐ろしい「鏡の家の針」と眠りつづける/眠れない女性が同居する静かな「枯草熱」を挟み収録された「蜥蜴」、夫と南の島を訪れた夏澄は妊娠中の大蜥蜴を見る。子供は欲しいけれどまだいない、とそれが自分の本心なのかわからぬまま言う夏澄に島の女性は「あなた今晩、妊娠するわ」と囁く。全てを知っていそうな島の人々、なぜか夏澄の生まれ育った部屋と瓜二つの部屋にいる呪術師らしい老婆は夏澄に「望みに、集中するように。そうすれば、あなたは変わることができる」と告げる。
 四篇を通じ主人公を追い詰めるのは、結局のところ自分の記憶や本心だ。見ないようにしてきたそれらに気づいてしまったら、言葉にしてしまったら、世界はぐるりとこんな風に変わってしまう......そして最も恐ろしいのは、あなたも私も誰も彼も、その逃げ場のない悲しみと驚きと安堵には、多分覚えがあるということだ。

 (おやまだ・ひろこ 小説家)

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