書評
2019年4月号掲載
『方丈記』作者の「魔」と「狂」
――梓澤要『方丈の孤月 鴨長明伝』
対象書籍名:『方丈の孤月 鴨長明伝』
対象著者:梓澤要
対象書籍ISBN:978-4-10-121184-8
十二世紀から十三世紀にかけての日本は、古今未曾有の変革期に突入した。古代から中世への一大転換は、政治・経済だけでなく文化までも一変させ、日本人の運命を翻弄した。
不幸にも、この時代に生まれ合わせた人間は、院政の崩壊と源平争乱による人災に加え、これまた未曾有の火災・辻風・地震・飢饉などの天災により、生命の危機にさらされた。
だが幸いにも、時代の不条理への怒りを糧に、新しいスタイルの文化を作り上げる人々が、何人も出現した。宗教では法然と親鸞。彫刻では運慶と快慶。和歌では藤原定家と源実朝。語り物では『平家物語』。歴史評論では慈円。散文では鴨長明。危機の時代は、文化を一気に新生させてくれた。
現代は、グローバリゼーションとIT化の渦中にある。世界的規模での天変地異も頻繁に起きている。この危機を乗り越えるべく、新しいスタイルの文化が胎動しつつある。
新しい文化は、批評精神と否定精神の塊である古典の中に、「現代人の危機感」を注入して攪拌することで誕生する。危機の時代に生まれた古典を選び、その遺伝子組み換えに成功した歴史小説が、最先端の現代文学として姿を現す。
梓澤要は、『荒仏師 運慶』(2016年)に続き、「鴨長明伝」を副題とする『方丈の孤月』を書き下ろした。鴨長明は生まれた年も曖昧で、年譜にも空白が多い。この男の人生のどこに、二十一世紀の文学を開く扉が見出せるのか。
梓澤は、不幸な家庭生活や、憧れの女性への切ない思いなど、想像力を駆使して、長明の日常生活を現前させる。従者の「右近」や、日野山での孤独を慰めてくれる少年「がや丸」など、バイプレーヤーたちが精彩を放つ。
鴨長明の人生は、挫折の連続だった。下鴨神社の神官の名門に生まれたが、要職に就けず、しまいには仏門に入った。歌人として活躍したが、『新古今和歌集』の完成の直前に出奔した。琵琶の名手だったが、秘曲を独断で披露して批判された。鎌倉まで下向したものの、三代将軍源実朝の歌道師範になれなかった。彼は、何をしたかったのか。あるいは、何をするしかなかったのか。ここに、梓澤要は目を注いだ。
鴨長明が著した『方丈記』は、『枕草子』『徒然草』と並ぶ三大随筆の一つとされる。だが、気ままな「随筆」ではない。梓澤は、推定五十八歳で『方丈記』を著した長明に、自分の等身大の分身を見たのではなかったか。神道・歌道・管弦・仏道などで頂点を極めようと、熱き志を燃やした長明の「愚かしさ」を、梓澤は見据える。「志=情熱」の別名は、執着・野望である。「魔」であり、「狂」である。世界という巨大な魔を前にして、自らの心の小さな魔をぶつけても、見事に跳ね返される。その情けなさと浅ましさが哀しい。
時代や自分の壁を突破しようとしてもがく長明は、魔や狂に取り憑かれた「自分の同類」を、何人も見つけた。長明は彼らと、魔と魔、狂と狂をぶつけ合う。すると、その相互影響で、新しい道筋が見えてきたではないか。
太宰治の『右大臣実朝』(1943年)で、実朝と長明が対面する場面は忘れがたい。太宰の慧眼は、「私の案ずるところでは、当将軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦(きゆ)を許さぬ何か尊い火花のやうなものが発して、それがあの『方丈記』とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか」と、見破った。
梓澤は一歩進める。長明が実朝に万葉調の和歌を完成させ、実朝が長明に『方丈記』を書かせたと、相互衝突の奇跡を描き出す。同じ衝突が、長明と後鳥羽院、長明と藤原定家との間でも起きていた。かくて、新しい中世文化が開幕した。
梓澤要は、十二世紀の世紀末を生き抜いた鴨長明の「文学の魔」と、デビュー以来四半世紀を閲し、長明が『方丈記』を書いた年齢を経た自分自身の「文学の魔」を正面衝突させたのだろう。「自分の文学」を発見するために。
鴨長明は、神道でもなく仏教でもなく、和歌でもなく物語でもない、ほかの何物でもない地点に、自分の心の安らぐ居場所を見つけた。そこから、しきりに、「真実の自分の心を書け」と呼びかける声が聞こえてくる。だから、日本文学史上で、どの作品にも似ていない『方丈記』を書いた。
和歌でも物語でもない型破りな「散文」の世界は、時代と空間を超え、人々の魂を揺さぶる。『方丈記』は、古い価値観を墨守する人々には、危険で怖ろしい文学となった。
梓澤要もまた、古典でも近代小説でもない、かと言ってエッセイや歴史書でもない、魂の文学書『方丈の孤月』を書いた。梓澤は、彼女の心の最奥に沈潜し、自分自身と現代人の新生願望をしっかり掴み取って、浮上させた。
(しまうち・けいじ 国文学者)